公権力の行方

落合 功

今年は「想定外」という言葉が流行である。入試問題流出事件と福島原子力発電所の事故。説明者が使う常套句である。責任回避の表現として使われるようだが、同時に説明者と現実との感覚のズレを示している。
もう20年以上も前になる。歴史学界では中近世移行期論の中で惣無事の議論が盛んに行われていた。中世以来の領主権力が統一権力を創出する過程で、豊臣政権は惣無事令を発し、領主間の抗争、海賊の横行、村同士の紛争を禁じた。いわゆる豊臣平和令である。これにより領主間の抗争は、当事者間で解決することは私戦として禁止し、相互に超越した公権力が判断するとしたのである。領主が農村に対して恣意的行為を行うとき、権力によって処罰された。かくして領主間の高次の存在として登場したのが公儀である。幕藩権力は公を儀す立場として、近世を通じて存在した。もちろん、その背景には圧倒的な武力や身分制があることを忘れてはいけない。ただ、かかる体制が安定的に存在し250年もの平和を得たことは見過ごせない事実である。この新たな権力は100年以上も続いた戦乱の中で生み出されたのである(高木昭作『日本近世国家史の研究』1990年、岩波書店、藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』1985年、東京大学出版会)。
当時、この議論を通じて、権力のあり方について、所与なのではなく、歴史的所産であることを実感し、興奮したことを覚えている。あるべき権力を如何に展望すべきか。歴史を志すものにとって、権力は不可避のテーマである。
学問的成果は別として、実際に権力を持っている人々の権力観は見ていておもしろい。大きな理想を貫こうとする人、権力を握れば好きなことができると思っている人、相互間の利害調節が重要と考える人、地元や支持者、そして団体に利益を誘導しようとする人、権力者という地位そのものが好きな人など、様々である。それぞれの考えも聞いているともっともだ。恐らくその背景には現在の選挙制度が起因しているように思われる。
周知の通り、東日本大地震では世界も注目するほど大きな被害を蒙った。それに加えて原子力発電所の事故は、目に見えない放射線の危険と背中合わせの状態が続き、国民は恐怖にさらされている。震災復興に集中できず、都市機能も安定しない。なによりも平穏という大きな幸福が奪われた。
原発の存否については、放射線の危険を強く主張する人と、限りある化石燃料に対する代替エネルギーの必要性を主張する人と大きく議論が分かれるところである。原発の安全性に対する理解の度合いが存否を考える争点といえるだろう。ただ、原発反対派はもちろんのこと、推進派のいずれにおいても原発の安全は前提だ。
今回の原発事故を人為的と見る向きもあるが、敢えて「想定外」としておこう。「想定外」の地震と津波によって、「想定外」のことが起きた。それは、私に言わせれば、絶対条件であるはずの安全が崩れたことになる。ならば、権力は「想定外」の然るべき対応をすべきであった。ブレーキが効かない自動車を走らせたとなれば、全ての自動車をすぐにリコールするだろう。
だが、現実の権力は企業の論理に妥協した。結果的に、利害調節であり利益誘導を基調にしたといってよい。「政治主導」という新たな権力を予感させる言葉は、官僚との内輪もめに使用していた言葉に過ぎなかった。
結果、国民の不安を招いた。そして、これまで積み重ねてきた日本そのものの安全という信用も崩れてしまった。原発リスクの対象は地域住民や農産物だけではない。そこに生息している動物、植物、魚、草花あらゆるものに対して危険を招いた。脱ダムなどで主張された美しい環境理念は忘れられている。政府による情報開示も国民は我慢強く受け入れたが、世界は許さなかった。言葉だけではない、実行と結果こそが大事である。カイワレ大根を食べて、安全性をアピールしていた時代が懐かしい。
個々の団体から超越した権力として、ともすれば個々の団体では判断を見誤りかねない環境や、安全への価値、そして、必要な情報開示について、的確な判断を下せるのかが重要だろう。権力の在り方が歴史的所産であるとすれば、グローバルな社会の中で、そして環境や安全という新たな価値指標の中で、そろそろ新たな権力が登場する時期が来ているのかもしれない。
〔おちあい こう/広島修道大学教授〕