神保町の窓から(抄)

▼島根県で軽自動車に本を一杯詰め込んで、注文をとりながら配達をつづける「子どもの本屋さん」という書店がある。店舗はない、いわば動く書店だ。島根は辺鄙な国だ。山もあり海もある。面積は全国19位なのに、人口密度は四六位だ。本屋さんは、鳥取、佐賀よりは少し多いが110店しかない。今井書店が孤軍のごとく奮闘している。「子どもの本屋さん」には従業員はいない。松本しげのさんという女性が一人で頑張っている。松本さんは小学校や中学校をまわり、子どもに読んで貰いたい本を薦めつづけている。
 そんな松本さんが、柳瀬尚紀さんの翻訳した『ロアルド・ダール コレクション』(評論社刊)の1冊『チョコレート工場の秘密』に出会った。この本の訳文がどんなにすばらしいかを語りつづけ、沢山の注文を受けていた。そんな折り、ある小学校から子どもたちにどんな本を薦めたらいいかと相談を受けた。松本さんは即座に例の『コレクション』を提案した。松本さんは自らの提案をゆるぎないものにするため、訳者の柳瀬さんを呼んで「特別授業」を目論んだ。
 この小学校は、出雲空港から車で2時間もかかる本物の田舎にある。松本さんからの要請をうけた柳瀬さんは、それを承知で承諾し、編集者を同伴して件の小学校へ向かった。6年生1クラス16名、広い図書室で特別授業が始まった。ペタンと座る体育館座りで。柳瀬さんは、ことばを持った人間がいかにすごいか、ということから話し始める。次に火を使うことのすごさ、そして文字を持ったことのすごさを「宇宙へいくことより凄いこと」だと強調する。「木」という字を例にして、「木」→「林」→「森」と紹介していく。中国にはこんな字もあると「林」が「森」状にかさなっている字も紹介し、文字のもつ深い意味を説く。私の筆力では柳瀬さんと生徒たちの生き生きとした発見や会話が紹介できないが、ことばと文字のもつ偉大な力を再認識させる話だ。柳瀬さんは力説する、子どもは大人から言葉を学び、その言葉のなかから社会や人生を学びとっているのです、と。私たちに向かって言われていると思ってもいい。本という言葉の集積を流布して食っている、本屋という仕事の重さも感じざるを得なかった。さわやかな緊張をくれた本だった。子どもをもつパパやママにおすすめします、柳瀬尚紀著『日本語ほど面白いものはない─邑智小学校六年一組特別授業』(新潮社、2010年)。
▼群馬方面に用事があり、正月に快晴の東北道を車で下った。館林を過ぎ上武道路を走る。久しぶりに見る赤城山が雲ひとつなく頭上に迫ってきた。赤城の山々に見とれて前橋近くまで行ってしまった。いつもそうなんだけれど、赤城山麓に抱かれると少年の頃が思い出されて意味もなく涙ぐむ。たった17年のつき合いだったけれど、そうなる自分がおかしい。群馬が生んだ詩人・萩原朔太郎は「郷土!いま遠く郷土を望景すれば、万感胸に迫ってくる。かなしき郷土よ。人々は私につれなくして、いつも白い眼でにらんでいた」と望郷するが、戦後復興も、まだ緒についたばかりの頃出郷した私にとっては、「東京で稼いでこい」「あっちで生き抜け」という口減らし的な運命に唇を噛むのが精一杯だった。それが、もう半世紀近くも経ってしまっている。室生犀星の「ふるさとは遠きにありておもふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土のかたゐとなるとても 帰るところにあるまじや……」と、そんな固い決意もなかったが、ここまでくれば赤城に抱かれて死ぬことは諦めよう。この東京砂漠がすっかり身にしみて「べーべー」言葉は偽物になっているだろう。変わらないのは、「わたしの赤城」だけかも知れない。年賀状は、小学校で机を並べた女友だち、籠屋の節っちゃんからの、たった1枚だけだった。
▼らい(癩)の患者・元患者の作品を編集した『ハンセン病文学全集』全10巻を完結させた皓星社が、出版梓会が主宰する「出版梓会新聞社学芸文化賞」を受賞した。初回の配本は2002年の秋だが前史を数えると25年もかかって完結したことになる。皓星社の藤巻さんは詩人の村松武司に出合い、この道にのめり込んで行ったのだが、この文学全集のほかにも『ハンセン病違憲国賠裁判全史』(全九巻)や「ハンセン病選書」などこの分野では専門出版社だ。「選書」の中の1冊『向日葵通り』は、明治41年生まれの田中美佐雄の歌集だが、田中は昭和3年に発病、13年11月に草津の栗生楽泉園に入園する。30歳のときだ。以来60年以上この療養所で暮らすことになる。世間と病気と闘いながら詠みつづけた歌集である。ハンセン病に対する社会の理不尽を突きつけられる。
 だが、ハンセン病関係の本は売れない。経済書よりもっと売れないらしい。患者や元患者の数は減りつづけ、いずれなくなるだろうが、患者なるがゆえに差別され、闘いつづけてきた人々の記録を出版した版元までもが消滅しては、あまりにも切ない。 (吟)