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  • PR誌『評論』182号:思い出断片 (14) 東京都立大学の助手時代(2)──伊豆・伊浜部落の調査

思い出断片 (14) 東京都立大学の助手時代(2)──伊豆・伊浜部落の調査

住谷 一彦

昭和26・7年頃、私は東京都立大学の社会(人類)学科の助手であった。その頃の主任教授は、岡正雄さん、助教授は鈴木二郎さん、助手は私のほかに祖父江孝男さん、蒲生正男さんの3人だった。部屋は一部屋で大きく広かったが、机が一つ置いてあった。ほかに何もなくガランとしていた。ストーブが一つ置かれており、寒くなると、そこへ石炭をくべて、先生も学生も集まって暖をとった。学生は10人くらい。私たち助手3人も加わって、岡先生を中心に、先生の話を耳をかたむけて聞き入る日々だった。岡先生は日本の民族学の草分け的存在だったが、寡筆で結局著書は『異人その他』(言叢社、1979年、94年岩波文庫)1冊だけだった。しかし、岡さんは座談の雄で、実に話題が豊富、当時の民族学界の表裏にわたり話は実に面白かった。人物観察にも鋭いものがあり、たとえば東大の文化人類学科主任教授であった石田英一郎さんは、ヴィーン大学民族学研究所で岡さんの後輩だったが、まことに温厚で篤実、生真面目な性格の先生だったが、それだけに岡さんの恰好の標的にされてしまった。岡さんはストーブの前で皆と暖をとっていたとき、石田さんを話題によくとりあげた。たとえば、こうである。石田さんと学会などで行を共にしたとき、石田さんがバスに乗るときをよく注視したまえ、彼は皆と一緒に乗り込むときに、皆がすぐ入口の段に足をかけてさっさと乗り込んでいくが、石田さんはちがうんだ。まずその入口の前に立つと、一瞬立ち止まって一寸ためらい、足をそろえてから、ゆっくりと慎重に片足をあげてバスの段をふみしめる。それをたしかめてから入るんだ。決してさっさと入っていかないのだ。皆でそれを頭において見ていると、全く岡さんの言うとおりだったので驚いた。岡さんのそうした人物観察はとどまるところを知らなかった。学界の有名人の誰彼ともなく、皆岡さんのやりだまにあがってしまった。そのうえ岡さんはワイ談の大家だった。その下ネタの話は面白おかしく、女子学生たちは顔を赤くして下を向きながらも決して逃げ出したりしなかった。岡さんの話術にはまって、集まった学生のなかから大学の先生になった者も2、3にとどまらなかった。その意味で岡さんの著書こそ1冊にとどまったが、学界に有為の人材を育てた点では他の追随を許さなかったといってよい。
岡さんが主任教授だった間に、学科全体の一番大きな業績は、以前の連載にも述べたように、農村の実態調査に文化人類学的な方法を積極的に持ち込んだことだった。その最初の成果が、伊豆半島伊浜部落の調査だった。もっとも何故そこが選ばれたかは全くの偶然で、地図をひらいて西伊豆のどこでもいい一カ所を指さして決まったのであり、何故そこが、と聞かれても、その理由に困ってしまうのである。ただ、東伊豆にくらべて西伊豆は全くひらけておらず、半島一周のバスはなく、わずかに伊東から下田までのバスがあっただけだった。私たちは下田から調査地の伊浜までは、崖っぷちの細い道を通るか、舟で行くしかなかった。伊浜部落のすぐ北部に妻浦、子浦の港町があった。私たちは歩くか、舟かで伊浜に向かった。
伊浜の公民館に寝泊まりしながら、私たちは学生とともにひと夏の調査をおこなった。日本人による文化人類学的な実態調査としては、おそらく本邦最初だったのではなかろうか。そこは調査してみてはじめて分かったのだが、実に典型的な年齢階梯制的な村落であった。年齢階梯制とは江守五夫氏の命名によるのだが、一例を挙げると、こういうかたちになる。
 33歳←30歳←29歳← 20歳 ← 15歳
 頭 ─頭脇─若い衆─小若い衆─使い走り
ところが、伊浜部落にはオーヤ一統とよばれる同族団が君臨していた。これはいうまでもなく、本家─分家─末家のピラミッド型の一団であり、年齢階梯制とは全く別の原理で成り立っていた。伊浜部落には二つの別個の原理による家集団が存在していたのである。何故そうであるかについて皆で大いに討論した。結果は年齢階梯制の家集団のうえに同族団のオーヤ一統があとから入ってきて支配集団を形成したという仮説だった。内部発生説は否定された。私たちはアカルチュレーション(異文化接触)という文化人類学の学説にもとづいて調査した点で、本邦最初の調査といってよいと思っている。(鈴木二郎編『都市と村落の社会学的研究』世界書院、1956年所収)。
[すみや かずひこ/立教大学名誉教授]