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  • PR誌『評論』182号:福島自由民権と門奈茂次郎6 常事犯と国事犯

福島自由民権と門奈茂次郎6 常事犯と国事犯

西川 純子

加波山事件が福島事件と違うのは、世間の反応が冷たかったことである。新聞は暴徒の反乱と書きたて、警察による暴徒の召捕り劇を面白おかしく伝えた。政府の御用新聞であった東京日日新聞は「暴徒が檄文と唱ふるものを一見したれど字数僅かに300余字許りなり、不立派の文章と申すべきなり」と、檄文の中味も吟味せずに切り捨てている。自由党の機関紙である自由新聞も「暴挙」という言葉を使って跳ね上がりの行動を戒めたが、これは組織防衛のために無理からぬことであったろう。暴徒を裁くのに大義は不要とばかりに、加波山事件の容疑者は重罪裁判所において常事犯扱いとされた。しかも、裁判は被告人の逮捕地ごとに分割して行われた。碌な証拠もないのに国事犯として立件され、東京高等法院が裁きの場となった福島事件に較べると大きな違いである。被告側はこれを不服として、大審院長あてに上告書を提出し、国事犯として高等法院で審問すること、同じ裁判所で一括して裁判を行うことの二点を要望した。しかし、上告は却下されて、東京、栃木、甲府、千葉の各重罪裁判所で審問の末、判決が下されることになった。茂次郎は横山、三浦など八名とともに東京で常事犯に問われたのである。これについて茂次郎は次のように述べている。「時の大審院長、玉乃世履は、資性明敏なるも、操志堅からず、藩閥政府の、圧迫に屈従して、当然、国事犯を以て、断罪すべきを、常事犯に問ひたり。吾等同志の士は無限の悲憤に燃え乍ら、何等、信ずるに足るの価値なきものに対する抗告を為さずして、死刑に、徒刑に、進んで身を投じたり」(門奈茂次郎から伊藤仁太郎へ〔1929年4月3日〕『痴遊雑誌』第4巻3号、1938年)。 

茂次郎の大志
茂次郎の被告人尋問調書からは、たとえ極刑に処されようとも国事犯として大義に殉じたいとする彼の願望が読み取れる。彼は小川町質店に押し入った動機について、「自分ハ兼テ財産抔ニ目掛ケテ之ヲ強奪スルコト抔ハ夢ニモ思イ立タザル事ニテアリシモ年来大志ヲ懐キ居リテ其志ヲ実行スルニハ多少金ナキヲ得ス依テ之ガ用金ヲ得ルノ手段ハ銀行又ハ県庁ヲ襲フニ如カスト存シ居タレドモ如何セン同志ノ者不足ニテ其事ヲ果タス能サル故止ムヲ得ス強盗ノ手段ニ及ビタル訳ニシテ決シテ私欲ノ為メニ為シタル儀ニテハナシ」と述べた後に、「大志トハ如何」と問われて、「第一着手ニ福島県庁ヲ襲ヒ然ル上仙台ノ兵営ニ攻入ルノ目的ナリ」と答えている。また「汝ハ栃木県開庁式ニ乗シ顕官ヲ刺殺スル事ニハ加担セサリシト云ウヤ」という質問に対しては、「加担セス」と答え、その理由として「自分ハ同志ヲ募リ兵ヲ挙ケントノ大望アリ又河野カ貴顕ヲ刺殺スル事ニテハ迚モ目的ヲ遂クル事能ハサル事ニ付到底当地ニ逃ケ来リ我志ヲ援クルニ至ル事ト推測致シ居タリ」(稲葉誠太郎編『加波山事件関係資料集』、三一書房)と、聞かれもしないのに不穏当なことを述べている。
もとより、茂次郎の大志は、彼の胸の内のものでしかない。横山や河野には披露したことがあるが、彼らの同意を取り付けているわけではなかったから、彼の企てについて同志からの証言を得ることは難しかった。それどころか、河野は茂次郎をかばおうとしてか、茂次郎が宇都宮襲撃事件について関与していなかったと主張して、次のように証言していた。「門奈ハ全ク共犯者ニアラザルナリ。如何トナレバ、門奈ト我々ノ論ハ合ハザルモノナリ。前モ申立テタル通リ、我々ハ5人ナリ10人ナリ同気相求メテ、小運動則チ暗殺ヲ実行スルト言フ説ヲ非難シ、門奈ハ全国ノ同志ヲ東京ニ会シ、大運動則チ全国ノ同志者ヲ募リ政府ヲ転覆スル方増サレリト言ヘリ」(同上)。この証言がなかったら茂次郎は刑場の露と消えていたかも知れない。
茂次郎に対する裁判所言渡は次のとおりであった。「門奈茂次郎、論述ハ政事改良ノ為メ挙兵ノ目的ヲ以テ財貨ヲ掠奪シタリト云フニアレトモ果シテ該目的ヲ以テ之カ所為ニ及ビ足ルモノト認ムヘキ他ノ事蹟ノ徴スヘキナケレハ此所為ヲ以テ政事改良挙行ノ一部分ナリトシ普通重罪裁判所ノ管轄スヘキモノニ非ストノ申立ハ相立難シ」(茨城県史編集会『茨城県史料・近代政治社会編・加波山事件』)。判決は有期徒刑13年であった。「わずかに5円80銭を強奪して懲役13年はいかにも重い」とは、高橋哲夫氏の言である。(高橋哲夫『加波山事件と青年群像』)強盗・殺人の罪としては加波山事件の判決は全般に異常と言ってよいほど厳しかった。
[にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]