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  • PR誌『評論』182号:2010年、ベックとの邂逅  ──ベック来日と『哲学・社会・環境』刊行余話

2010年、ベックとの邂逅  ──ベック来日と『哲学・社会・環境』刊行余話

島村 賢一

2010年の10月下旬から11月上旬にかけて、現代ドイツを代表する社会学者ウルリッヒ・ベック氏が初来日し、東京の一橋大学、京都の立命館大学、名古屋の名古屋大学で来日記念シンポジウムが行なわれた。私は東京と京都のシンポジウムで通訳を務めた。この来日については朝日新聞の記事(2010年11月11日夕刊)でとり上げられたこともあり、ご存知の方も多いであろう。同記事では言及されていないが、夫人のエリザベート・ベック=ゲルンスハイム氏も共に来日した。彼女もドイツでは著名な社会学者であり、専門は主として家族、ジェンダー研究で、夫との共著『愛というまったくノーマルなカオス』(1990年、邦訳なし)の他、多くの単著書もある。ベック社会理論の中核概念のひとつである個人化論は、夫人との共同研究によって発展させられたと言われる。今回は京都でのシンポジウムで彼女も報告者として、発表をした。
ところで、この約3か月前の7月には日本経済評論社より『哲学・社会・環境』が刊行された。私は同書の編著者として「コスモポリタンシティズンシップにおける可能性と問題点──ベック世界市民社会論の検討を中心として」という論文を寄稿した。さらに9月には、2003年に平凡社から刊行されていたベック著の拙訳書『世界リスク社会論』がちくま学芸文庫から刊行された。2010年という年は誠にベック氏と縁が深かった年と言わざるをえない。そこで、この小稿では、通訳を務めた二つのシンポジウムでの所感を中心に述べてみたいと思う。紙数の関係もあり、各シンポジウムの概要紹介ではなく、あくまでも私の所感であること、また名古屋でのシンポジウムについては、残念ながら言及できないことをあらかじめお断りしておきたい。
東京でのシンポジウムの主題は「再帰的近代化の中の個人と社会──社会理論の現在」であり、日本側の報告者は神戸大学の三上剛史教授、愛知大学の樫村愛子教授であった。ここでは主としてベック社会理論の理論的検討が行なわれた。強く印象に残った点は、報告者間討論の際の三上教授の「ベック社会理論の思想史的背景は何か。またコスモポリタン化の議論の根底にはコント的な人類教的なものがあるのではないか」という問いに、ベック氏が「そのような人類教的なものはない。また自分は主義、思想としてのコスモポリタニズムと、現実に今起きている事実を分析する概念としてのコスモポリタン化とを明確に区別している。自分は社会学者なので後者にはるかに重きをおいている」と応え、思想史的な問いやメタ理論的な問いを一蹴してしまったことである。一般聴衆が参加しているシンポジウムという性格上、そのような議論を避けたかったのかもしれないが、やはりここには物足りなさを感じずにはいられなかった。
京都でのシンポジウムの主題は「リスクの時代の家族と社会保障──ベック理論との対話」で、ベック氏の他に夫人のベック=ゲルンスハイム氏、日本側から京都大学の落合恵美子教授、東京大学の武川正吾教授が報告を行なった。ここでは主にジェンダー、家族、社会政策等の経験的研究に基づく比較社会学的な議論が行なわれた。特筆すべき点としては報告者全員が「例えば日独社会を比較する場合に、文化の型の違いとしてではなく、歴史的な社会構造の変化、社会変動過程の中にそれぞれを位置付けることが重要である」という共通見解に至ったことを挙げておこう。また、ベック社会理論、とりわけ個人化論が夫人とのまさにアンサンブルによって発展させられものであることを実感する場でもあった。さらに「他者の視点を取り入れる必要がある」「自分たちを他者の目を通して見ることを学ばなくてはいけない」と折にふれて述べている自らの言葉を裏打ちするように、日本の現実から謙虚に多くのものを学ぼうとする同氏夫妻の姿勢も強く印象に残った。
東京、京都いずれのシンポジウムでも、聴衆の方から出された質問に「コスモポリタン化とグローバル化はどう違うのか」というものがあった。司会者が通訳者である私に研究者としてのコメントを求めたので、「この問いに対する答えは、日本経済評論社から刊行された拙稿(前掲)に書いたので、そちらを読んでいただければありがたい」と会場で述べさせていただいたことを最後に挙げておく。
[しまむら けんいち/放送大学非常勤講師]