石川一郎とその時代

武田 晴人

「石川一郎」という名前を出しても、その人物像をすぐ思い浮かべられる人は少ない。「誰ですか?」という反応が普通だろう。
私も、石川一郎が残した大量の文書に出会うまで、名前を知らなかった。
しかし、石川一郎の足跡と貢献から見ると、この低い知名度は不当な扱いだろう。なぜなら、敗戦の混乱から、復興・高度成長へと続く時期に、「財界総本山」といわれた経済団体連合会の会長を、その前身となる経済団体連合委員会代表理事時代を含めて10年にわたり務め、1956年に原子力の平和利用のための中核機関として原子力委員会が設置されると、その会長に就任し、財界総理を石坂泰三に譲った人物が、石川一郎だからである。
ちなみに、石川が戦後に就任した主要ポストを列挙すると、経団連会長のほか、化学工業連盟会長、日本塩業協会会長、日本産業協議会会長、日本科学技術連盟会長、日本銀行参与、日本工業標準調査会会長、運輸貨物等級審議会会長、建設省住宅対策審議会会長、産業合理化審議会総合部会長、国際商工会議所日本国内委員会常任理事、運輸省造船合理化審議会会長、建設省道路審議会会長、経済審議会会長、原子力研究所理事長等々と続く100を超えるリストになる。その中には、内閣の食糧対策審議会、通貨発行審議会、単一為替設定対策審議会、失業対策審議会、国土総合開発審議会、外務省の賠償協議会、大蔵省の中央株式等評価委員会、通貨安定対策委員会、復興金融審議会、金融制度改革懇談会、商工省の綿紡績設備復元審議会、電力融資委員会、経済安定本部の物資需給調整審議会などの政府関係の重要な審議会が網羅されている。
戦後の財界人としては、財界四天王とよばれた中山素平や桜田武、水野成夫、永野重雄などの方がよく知られている。彼らがクローズアップされるのは、保守政党との接点を持ち、戦後日本の政治・経済に公式・非公式に係わり続けたからであった。それに比べると、石川は「政治力がない」と見られていた。それが石川が歴史の記憶から消えかかっている理由かもしれない。政治のドラマには登場する場面はほとんどない。石川の財界総理在任期間の大半は占領中であり、彼が政治力を発揮する余地は乏しかった。石川は、四天王たちの個人プレーとは一線を画し、調整型の財界リーダーとして経済復興が至上課題であった時代に、日々刻々とつきつけられる難問に立ち向かう、経済界の舵取り役をまかせられた。
敗戦までの経歴を振り返ると、石川は、東京帝国大学工科大学を卒業後、同大学助教授を経て実業に転じ、1941年に日産化学社長、翌年化学工業統制会会長に就任した。しかし、だからといって、日本経済連盟会に代表される、財界の中心にいたわけではない。その椅子には財閥系の専門経営者たちが並んで坐っていた。敗戦後に、彼らが占領軍の政策によって「公職追放」となり、表舞台から退場した時、非財閥系で「学者肌で公正な人」というイメージの石川に、財界総理の役が廻ってきた。占領軍のパージによる人材不足のなか、押し出された感じだった。その大役を果たすうえでは、「法王」とよばれていた一万田尚登日本銀行総裁の支持が大きな意味をもったともいわれる。
石川には、「ミスター統制」という評価もある。統制会の会長という経歴も影響しているのであろう。しかし、石川自身は「戦時統制のようなものは認められない。大枠は政府が決め、その枠内での規制は民間に任せてもらいたい。民間としても一定の方向をもった経済に進まなければならない」と語っていたという。統制を好んだというよりは、カネもモノも不足という戦後復興期の制約条件と、総司令部が基本的な政策決定を行っているという状況下で、どのような選択肢が可能かという難問への石川なりの解答だったのであろう。さまざまな意味で、時代の制約を石川一郎は負っていた。
だから、石川一郎の財界総理としての足跡を追っていくと、彼を通して、戦後復興期の日本の本当の姿を浮き彫りにすることができるかもしれないと思っている。経団連会長として彼が解決の道筋を探さなければならなかった課題は何だったのか。これが手掛かりとなるのではないか。もっとも、石川一郎個人については、それほど豊富な資料が残っているわけではない。
だが幸いに、手掛かりはある。
それが、冒頭でも触れた、30年以上も前の大学院生時代に経団連会館の倉庫で出会った「石川一郎文書」である。当時、『経団連30年史』の執筆を引き受けていた私にとって、研究生活で最初の大型資料との出会いだった。その興奮は今でも覚えている。その後東京大学経済学部に寄贈を受けて整理し、今ではマイクロフィルムなどでも公開され、この文書に基づく新しい研究も生まれている。
この貴重な資料群のなかには、経団連などの復興期の経済団体の資料と、石川が係わった審議会などの政府関係組織の記録が大量にある。だから、この資料を通して彼の生涯とその時代を描くこともできるのではないか。
私にとっては、研究よりも優先してというほどに、資料の収集・整理にのめり込むきっかけとなった「出会い」だったから、この文書にはそれなりに思い入れもある。資料収集では、中味にまで入り込みすぎると整理できなくなると考え、集めた資料で研究論文を書こうという野心を持つことは封印してきた。しかし、そろそろ「来し方よりも行く末の方が短くなった」から、『石川一郎とその時代』という書物を書く、そんなことを2011年新春の夢として抱いてみても良いのではと思っている。
[たけだ はるひと/東京大学大学院経済学研究科教授]