神保町の窓から(抄)

▼神田・東京堂書店で頼んだ。「『蟹工船』が青少年に読まれているというが、私も読んでみたい。現在売れている小林多喜二の本を、いくつか揃えてもらいたい」と。二階フロアの聡明そうな女店員は、可愛いい笑顔で「ちょっとお待ちください。すぐに揃えますから、店内をご覧になっていてください」と愛想がいい。10分もたたないうちに、彼女からお呼びがかかった。新潮社、第三書館、岩波書店、そして『マンガ 蟹工船』まで揃えてくれた。この本、読んだのは何年前だったろうか。大学を出て、プロレタリアートの人生を踏みだしたころだったろう。虫けら以下に見下される蟹工たちが、徒党を組んで監督やらに刃向かおうとすることに、言いしれぬ共感を覚えたものだった。友だちもなく、これから何十年も会社勤めをしなければならない不安がそう思わせたのかも知れない。結局、東京堂で『マンガ 蟹工船』と週刊金曜日が雨宮処凛・野崎六助の解説つきで出しているものを買った。「おい、地獄さ行ぐんだで!」と、酒臭い男の科白で始まる冒頭句には覚えがあった。野崎六助の注記は、懇切丁寧だが、これほどまでに詳しい注記がなければ、1929年当時の蟹工たちの言葉は、現代では解り難かろう。死語と思えるものもある。「蚤」「虱」「つかみっ鼻」「南京袋」……。そんなこと知らなくても、当面の生活に不便はない。
 どんな人が読者か、巷間フリーターや派遣労働者など生活不安定な青年たちが共感をもっているのではないか、という。連帯してヤツ等の勝手を許さないということに痛快を感じているのだろう。だが、それだけでいいのか。その先に蟹工たちのような発言や行動や示威は用意されているのか。
▼『蟹工船』を読んで何になるとか、意味があるか、と言おうとしているのではない。自分が不条理に扱われていると気づいても、それを反発力に変えるのは容易なことではない、と言おうとしているのです。若い人たちは、つい先だってまで、会社にぶらさがって、一生へいこらして生きるのはイヤだ、自分には他人と違った自分の仕事があるはずだ、自分探しが青春だ、と言って会社人間になることを拒んでいたのではなかったっけ。われわれの時代はもっと往生際はよかった気がする。会社に帰属することは善ではないが、決して悪でも恥でも不義でもない。下手な比喩だが、村が崩壊し、田畑が荒れ、村人たちは行き場を失い、会社という村に住みつき、貧しい田畑を耕しているのが現代であることを忘れてはいけない。資本主義社会とは、会社社会の別称なのだ。会社人間を軽侮していなかったか? 独楽鼠のように見えたサラリーマンを舐めていなかったか? 今はバブルの時代ではない。派遣はつらい、仕事もない、それはみんな大人が悪い、という泣き言が「バブルよもう一度」と叫んでいると誤解されないようにしようではないか。
 不満や不幸はたしかに連帯をつくることのきっかけにはなる。なるけれど、『蟹工船』を読んだだけで会社や資本に立ち向かえるか、連帯をつくれるか、それに続く行動は何かといいたいのだ。
 読書によって「自分より辛い(だろう)人もいるのだ」ということを発見することはある。それで、心機一転、今の自分の境涯を是とすることもある。だが、それでは「本のおかげ」とはならない。平和のこと、環境のこと、格差のこと、本から学びとることは多い。そこで自分は何ができるか。この問いは繰り返されなければいけないだろう。
▼9月の末から学会が続いた。社会経済史学会、経営史学会、政治経済学・経済史学会、鉄道史学会、同時代史学会研究会……。それに加えて、竹橋事件130周年記念集会とか松本昌次さんの出版記念会や書の展覧会、借入のための銀行通い等々ちょっと気忙しい秋であった。学会はいくつかの懇親会に出た。会場で景気をつけ、旧知の先生方と二次会へ。話は行く末よりも来し方に重点が移ってきたが、内容は年々深刻さをまして行く。残り少ない人生をいかに生き急ぐか、声高だが年々悲壮感が高まっていく。しかし、人は話していて元気づくものなのだということを、あらためて思う。特に経営史学会の晩に遭った青年は、「(おじさん)僕、間もなく卒業ですが、どんなところに就職したらいいのでしょう」と問いかけてきた。そんなこと答えられることではない。結局、「いろいろな人に話を聞くことだな」と言うのがせいいっぱいだったが、まんざら出鱈目でもない。いくつになっても人が育ったり、大きくなっていくのは人と人との間でしかない。「にんげん」は他人との摩擦の上に社会をつくっているのだということには確信がある。この摩擦を怖れ、孤、個、独ばかりを尊重すると連帯とか友人の価値は低下し、秋葉原の青年のように、「人を殺そうとしているのに、誰もとめてくれない」などという、説明のつかない甘ったれになってしまうだろう。電子の時代での協同と自立は、重い課題になりそうだ。さて、今夜も連帯を求めて酒場に行くか。それとも、まっつぐ帰って古典の世界に酔うか。