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  • PR誌『評論』181号:ラスキンの3つのレッスン  ──見る、考える、想像する

ラスキンの3つのレッスン  ──見る、考える、想像する

横山 千晶

ジョン・ラスキン。ヴィクトリア朝のこの哲人を今こそ多くの人に向けて紹介することの重要さは百も承知だが、入門書の執筆ほど大変なものもない。まずは読者層。入門書を読むのは入門者だけではない。必ず専門家も読者となる。後者は自分の研究分野を手っ取り早く説明してくれる誰かを探しているものだし、他人が自分の研究テーマをどのような観点からどのように見せるのか興味津々である。入門書の読者層は多岐に渡ることを自明の理としなくてはならない。しかしながら入門書は入り口である。今までこのテーマを知らなかった読者にこれは面白い、もっと知りたいと思ってもらう必要がある。だからこそさらなる深みへと人を誘い込んでいかなくてはならない。自己満足に終わってはいけないのである。同時に入門書を書くことは、この「自己満足」というタコつぼから出ていくことである。どうしてこのテーマが他者にとっても大切なのか。このテーマは今どんな意義を持つのか。今までの自分の来し方を振り返り、これからの道のりを他者とともに眺望しなくてはならない。
ジョージ・P・ランドウが描き出したラスキンの像は、私がラスキンの中に見ているものと合致する。そしてそのラスキン分析の手腕は誠に鮮やかで、右に挙げた入門書特有のハードルを見事に超えている。その意味でこの小粒の山椒本を翻訳し、広く紹介することには何のためらいもなかった。
本書がラスキンの中に見出し、ラスキンを通して伝えようとしていることは、自分の目を鍛えろ、その上で思考する力を養え、という今こそ力を持つ教えだ。何気ない日常の出来事は、「徴候」である。だから、森を見る前にまず木を見よ、とラスキンは強調する。身の回りで起こるすべてには意味があり、時代の大きな流れの支流のまた支流となっている。あらゆるものの観察を通してラスキンは本流にいたるすべを私たちに教えようとする。
その過程で身体的な経験と言語表現は対立するものではない。ラスキンは言葉をまるで目と絵筆のように使いこなし、読者の想像力をかきたてる。ラスキンを読むという行為は、そして理解しようとする行為は、物の新しい見方、事象の新しい経験法を身につけることである。
しかし巷で言われる通り、やはりラスキンは難解である。本書ではラスキンの言語的な「技」の分析を行うことで、ラスキンを読むという行為の手助けをしてくれる。
続いてラスキンは、観察したものをつなぎ合わせよ、と教える。対象に優劣が付けられることはない。芸術、政治・経済も消費という日々の営みも、そしてラスキン本人の人生もすべて同列に置かれる。木を見た後は森に入り、森を作れというわけである。これはまた19世紀から幅を利かせ始めた「専門化」への反論でもある。見たこと、そこから思考したことをつなぎ合わせてより大きな絵画を作るのだ。
つなぎ合わせる際に糊となるのが「想像力」である。大量生産の時代に自分が所有しようとするものが誰によってどんな環境で作られているのか、などと誰が想像できただろう。しかし、消費者運動全盛の21世紀において、ラスキンのこの考えは広がりつつある。そして自分の行為が与えるインパクトを各自が考えることで、個人の行為がより大きな運動となっていく。つまり見ること、想像することはやがて行動することになる。森にさらに木を植えよ、とラスキンは説く。
ラスキンの手法と精神は、ランドウが現在取り組んでいるハイパーテキストの手法にほかならない。複雑な情報を巧みにつなぎ合わせるのみならず、読者が自主的に動き、自らの知のネットワークを広げていくことを誘引するのだ。翻訳では二次元の世界でハイパーテキストの精神をなるべく活かすように努めた。同時にラスキンを通して過去、一九世紀、現代を結び付ける努力もしたつもりである。そしてやや長い解説を通して翻訳者自身のラスキン像を付け加えることも許していただいた。
そのような作業の中で本書を世に出すまでにひどく時間がかかってしまった。読者がラスキンという森に踏み入り、それぞれ何かを持ってさらに突き進んでくれることができれば、少しは償いになるかと思う。
[よこやま ちあき/慶應義塾大学法学部教授]