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  • PR誌『評論』180号:思い出断片 (13) 名古屋大学・東京都立大学の助手時代(1)

思い出断片 (13) 名古屋大学・東京都立大学の助手時代(1)

住谷 一彦

私は1949年3月に卒業してすぐ名古屋大学法経学部の助手となった。戸沢鉄彦先生が講座の主任教授であった。私はその年の5月に結婚して新婚旅行のかたちで名古屋に赴き、父の友人である青柳愛知県知事の官舎の一隅にあった元馬丁の家に住みつくことができた。文字どおり隣りは馬2頭をつなぐ土間だった。
戸沢先生は温容な性格のかたで、私は全く自由に自分の好きな勉強に打ち込むことができた。その意味ではまことに恵まれた環境裡に生活することになったといえよう。法経学部の助手は3人だった。ひとりは畑田重夫、他のひとりは稲子恒夫だった。私たち3人は思い思いに自分の勉強に打ち込むことができた。
この名古屋時代には忘れられない一つのエピソードがあった。助手生活の半年がすぎた頃、同輩であった鼓肇雄さんの紹介で一年間名古屋にあった金城学院女子大学の非常勤講師となったことがある。私はマックス・ヴェーバーしか勉強していなかったので、金城学院でも、もっぱらその講義に終始した。まだ24歳の若輩であった私の講義は生硬で学生たちには聴きづらく、退屈きわまるものであったにちがいない。そのうえ私が受け持った学級は四年生の最上クラスで、50人の女子学生は、いずれも20歳前後の、いま思えば十分に大人の女性たちだった。そこへ24歳の若造が半知半解のヴェーバー論を持ち込んだのだから、皆にとってはほとんどが関心の外にあったにちがいない。さほど歳のちがわない若い先生を一寸からかってみたくなるのは無理からぬことである。あるときいつものように皆が分かる、分からぬに関係なく一方的にヴェーバーの講義をして教室を出ようとしたとき、真ん中の席に座っていた女子学生が突然立ち上がって「先生!ベーゼとは何のことですか」と質問してきた。私は思わず振り返って、「それは……」と言いかけて一寸言葉につまったとき、教室の女子学生は全員大爆笑した。私は居たたまれなくなって教室を飛び出したら、うしろで教室全体がゆらぐような爆笑の波がつづいた。私はいっぺんに女子大学での講義はこりごりだと思った。それ以来女子大学での講義は一度もしていない。東京女子大学からの依頼も、私は安藤英治さんに頼み込んで代わってもらったくらいである。
名古屋大学の助手時代は全く自由に好き勝手ができてわが人生最良のときであった。若い基督者の研究者や学生とも知り合いができて研究会もひらいた。そのときちょうど朝鮮戦争が勃発して、私の属していた東海基督者学生連盟は全国に先がけて戦争反対のちらしをつくって基督教界にばらまいた。基督者平和の会はそのなかから生まれたのである。尊敬する井上良雄先生、堀豊彦先生がそのリーダーとなられた。サンショは小粒でもピりりとからい。基督者平和の会が日本基督教団の平和運動のなかで果たした役割は、日本基督教史のなかで後世まで残るものと思っている。
私は名古屋在住2年にして東京都立大学の藤田重行さんに勧誘されて東京に戻り、東京都立大学の助手となった。当時の助手群は多士済済で柴田三千雄、柴田徳衛、三好洋子、竹内幹敏等々が集まっては議論をかわしていた。
その頃私は松田智雄先生の用水路調査に従事していた。場所は御牧ヶ原(長野県)という高原で、戦国時代末期に蓼科山麓から十三里にわたる用水路をきりひらいて反当三石という高水準の収穫をあげていた。稲作に水がいかに大切かということを私はここでの調査ではじめて体感したのであった。と同時に、戦国末期に農民たちは、このような立派な用水路をつくる高度な技術を持っていたことに驚かされた。
稲作の問題に関心をいだいたことは、私を柳田国男先生の世界にみちびくきっかけとなった。それまで全く別世界の人だった柳田先生の業績にのめり込んでいった私は、いままでの学問の世界と全く異質な歴史民族学へとみちびかれることになったのである。こうして私は思想史と民族学という二足のわらじをはいて学問する身として今日に至っている。
[すみや かずひこ/立教大学名誉教授]