「韓国併合」100年の年に

後藤守彦

2010年5月10日、「韓国併合の過程は不義不当であり、併合条約も不義不当である」とする日韓知識人の共同声明が出された。画期的なことである。しかし、発起人の一人である和田春樹東京大学名誉教授は、日本では「小さい扱い」であるのに対し、韓国では主要紙が第一面で報じ、社説に取り上げた事実を紹介した上で、「併合100年の年に見るこの日韓の落差は、あらためて問題の現実性をわれわれに気づかせてくれた」(「日韓知識人共同声明の発表にあたって」『世界』2010年7月号)と指摘している。
6月18日、日本聖公会札幌キリスト教会で、李在禎氏の講演を聞いた。同氏は統一部長官として、2007年に盧武鉉前大統領とピョンヤンを訪れ、10・4南北共同宣言をまとめあげた。冒頭に同氏が語った言葉、「戦争に負けた日本ではなくどうして朝鮮が分断されたのか」が胸に突き刺さってきた。と同時に、南北分断の基底的責任が日本にあるという認識の面でも、和田氏が指摘したと同様の日韓の落差が存在するのではないかと痛感した。
これは少し溯るが、3月5日に北海道大学で、韓国のKBSで放送されたドキュメンタリー「110年ぶりの追跡 明成皇后[閔妃]殺害事件」を制作した鄭秀雄監督の講演会があった。同監督は「この事件を、韓国では100人中100人が知っているが、ほとんどの日本人は知らない、こうしたことが反日の源になっている」と強調したが、これも日韓の落差の証左である。 
こうした状況を見るとき、意図したわけではないが、「韓国併合」100年の年に、『只、意志あらば──植民地朝鮮と連帯した日本人』を上梓することができてよかったと思っている。刊行から約一ヶ月後に、日本図書館協会選定図書になったとの知らせを栗原哲也社長からいただいた。時宜にかなっていたことも選定の理由の一つなのではと推測している。
拙著では、朝鮮の独立・革命運動と連帯した日本人を3人取り上げているのだが、その1人が布施辰治である。祖父を語った『弁護士布施辰治』(西田書店、2010年)の著者大石進氏から「心のこもった書籍」との評価をいただいた。同一人物を扱っているが、大石氏が便りで述べられたとおり、「関心は同じくしつつ、視点は異なっている」。
布施以外の対象者は三宅鹿之助と金子文子だが、事績ではなく、思想形成の基盤を掘りさげたつもりである。「本書への誘い」と題する序文で趙景達千葉大学教授は「人間はいかなる存在なのかという本来主義的な立場から、人は何故利他的に生きられるのかという深い問の上に本書を叙述している」と書いてくださった。「第一章 三宅鹿之助の決断」「第二章 布施辰治の不屈」「第三章 金子文子の意志」と3人をそれぞれ漢字二文字で集約したが、何といっても若い人の死は悔しい。金子文子の章を「本当に惜しい、22歳6ヵ月の若き死であった」と結んだが、私に寄せられた、最初の一般の読者の感想は「金子文子のところでは涙した」であった。「韓国併合に関する条約」が公布された8月29日にソウルで行われる日韓市民共同宣言大会に参加した後、聞慶を訪れ金子文子の墓に花を手向け、隣接する記念館に拙著を納める予定である。
拙著の刊行が契機となって、講演する機会が増えた。演題を「「韓国併合」100年と日本人」として、参加者と一緒に学んでいる。拙著の「序章民族差別意識の形成」で、「朝鮮は儒教(朱子学)モデルの成熟した社会を形成していたが」、日本は朝鮮の「歴史・文化を真摯に理解しようとも、生活習慣・風習の意味を深く考えようともしな」かったと書いた。この「儒教モデルの社会」をどのように説明するのか、科挙制度を例としてあげているが、少し苦労している。講演で新しく取り入れているのは、成田龍一日本女子大学教授が提起された、戦争責任と植民地責任を包括する帝国責任という概念である。何よりも重要なのは、帝国責任が植民地責任と戦争責任の二つの「責任を決済せずにいる戦前と戦後にまたがる責任」(『「戦争経験」の戦後史』岩波書店、2010年)を意味するからである。
[ごとう もりひこ/北海道千歳高校教師]