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  • PR誌『評論』179号:福島自由民権と門奈茂次郎3 三島訴状

福島自由民権と門奈茂次郎3 三島訴状

西川純子

福島事件で起訴されたのは、河野広中、田母野秀顕、愛沢寧堅、平島松尾、花香恭次郎、沢田清之助の六名である。罪状は内乱陰謀、彼らの間で交わされた政府転覆の盟約書が唯一の証拠となった。これはいかにもでっち上げの政治事件であったから、世間の同情はむしろ河野たちに集まったという。法廷での彼らの姿が絵入りで報道されると、これをもとに錦絵が発売されて飛ぶように売れた。しかし判決は有罪であり、国事犯として河野に7年、他の5人には6年の軽禁獄刑が科せられた。三島県令は福島自由民権運動を壊滅状態に追い込むことに成功したのである。茂次郎は東京に残って下獄した同志の救済活動に当っていたが、この間に外遊から帰ったばかりの板垣退助の演説を聞いている。板垣は「激越の口調にて、藩閥政府にあくまで反対して其極この身を寸断さるるも初志を貫徹すべく……」(門奈茂次郎「東京挙兵之企図」)と述べたという。「藩閥政府と自由党は両立すべからざるを思い、遂には力を以て対抗するの余儀なきを危ぶめり」(同上)というのが、この時の茂次郎の感想であった。「危ぶめり」というのは、茂次郎がまだ法の制度に絶望していなかったことを示している。その証拠に、彼は会津の同志と語らって宮城控訴院に三島通庸を弾劾する訴状を提出し、福島裁判のやり直し請求を行った。訴状の冒頭には「被告三島通庸は法律の何物たるを知らず、権利の重んずべきを知らず、人民の決議を拒否して、濫りに土木を起こし以て己れの名利を貪らんとす」とあった。しかし、控訴は受け入れられず、審理に入ることなく却下される。同志の代表として仙台に赴いた茂次郎の落胆は激しかった。彼は「これ藩閥政府が司法権の独立を侵害したる明証なり」と述べている。(同上)法に頼り、法に見捨てられた茂次郎は、この時点で力による解決の方向に大きく傾いていく。
仙台出訴の一件は新聞社の知るところとなり、河北新報など数社が訴文を掲載した。これをもとに福島の官憲が案出した官吏侮辱罪と私印偽造罪は苦心の作であったに違いない。その罪はかねてより狙い定めた茂次郎や三浦文治など自由党員の逮捕に役立つはずであった。そうはさせじと茂次郎は福島を出た。

運命のどんでん返し
東京で逃亡生活に入った茂次郎は関西に出かけて各地で同志に面談する機会を得た。多くの人々と意見を交わすうちに彼は藩閥政府と自由党の両立がもはや望むべくもないことを確信するようになった。しかし、だからといって俄かに革命の旗を翻して政府転覆を成就するには機がまだ熟さない。ここはひとまず福島へ帰って時勢を待とうというのが彼の結論であった。福島に戻れば投獄は必定、どんな苦しめに遭うかも分からない。しかし、「23年まで獄窓にあって時機を待たん」(同上)と悲痛な決意をしたのである。23年とは詔勅によって国会開設が定められた年であった。
しかし、ここで運命のどんでん返しが起こる。福島へ向かって出発しようとする直前のこと、馬喰町の鉄道馬車で横山信六と邂逅したのが、その後の茂次郎の人生を変えることになった。横山信六は茂次郎と同じく、会津で数少ない士族出の自由党員であった。横山がいろいろ話したいことがあるというので、自分の止宿先に連れて行った茂次郎は、そこで重大な秘密を打ち明けられる。横山が三浦文治や河野広躰などと共に、宇都宮県庁の開庁式に乗り込み、栃木県の県令を兼務する三島通庸と列席の政府要人を爆弾で斃す計画を立てているというのである。爆弾は栃木県人の鯉沼九八郎のもとですでに製造済みであった。河野広躰は広中の甥であり、三浦と同様に茂次郎にとっては最も信頼のおける同志であった。はたして横山の言うとおり、福島行きをやめて計画に加わるべきだろうか、茂次郎が横山に問いかけたのは、「旧来仏国等の革命を見るに破壊は易く建設は難し、単に破壊をなすに専らなれば、内外の関係は邦家の前途をして収拾すべからざるに至らん」という疑問であった。これに対して横山は「吾等はさしあたりソレだけの任務にあたるにより予後のこと貴兄を始め、天下同憂士の熱誠に待たん」と答えている。(同上) 
一日おいて横山は河野広躰とともに再び茂次郎を訪ねた。それでもなお、茂次郎は暗殺による政府転覆の計画に批判的であった。彼は言う「宇都宮開庁式の一挙、壮は即ち壮なりと雖も、革命の大業はそれのみにて成就すべきにあらず」。ではどうすればよいと茂次郎は思っていたのだろうか。
[にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]