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  • PR誌『評論』178号:西川正雄『歴史学の醍醐味』の編集を終えて

西川正雄『歴史学の醍醐味』の編集を終えて

日暮美奈子

西川正雄先生が亡くなられて2年目にあたる今年の1月28日、論集『歴史学の醍醐味』が完成した。2008年11月2日に青木美智男氏を介してお話をうかがってから出版まで約14カ月の間、先生の三回忌に間に合うようにと、多くの方々のご協力を得ながら仕事を進めてきた。当日、西川純子先生から本書を墓前にお供えしたとのメールをいただき、編者のひとりとしてようやく肩の荷を下ろすことができた。
「はしがき」にも書いたように、『醍醐味』の掲載作品は西川先生が生前考えておられたプランをほぼそのまま踏襲したものである。何事につけても几帳面だった先生は、掲載予定作品の題名を記したメモ書きファイルをパソコンに残されていたので、それを活用させていただいた。いささか手前味噌になるが、オリジナルにできるだけ忠実にという姿勢は、編集方針として正しかったと思う。もしメモ書きがなかったならば、私たち編者は258点もある論文・評論からどの作品を選ぶかという難問に、おそらく苦心惨憺していたに違いない。そして、完成までには多くの時間がかかり、とても三回忌には間に合わなかったことだろう。
それだけではない。私たちが極力手を加えなかったことにより、結果として──思いがけずに──論集からは先生の歴史観がはっきりと現れることになった。先生がいくら几帳面な性格をお持ちだったとしても、どうしてあれほどまでに徹底的に調べ尽くすことにこだわったのか(例えば「グッバイ・大日本帝国」の執筆にあたっては、小学生の頃に見た映画『蒙古襲来』の内容と封切年月日を確認するために、雑誌『キネマ旬報』のバックナンバーまで探しに行かれた)、また、表象、言説、記憶といった新しい分析概念の多用に、何故あれほどまでに厳しい批判の目を向けたのか(ジェンダー概念にたいしてすら、懐疑的な態度を示しておられた)──ずっと抱き続けてきたこれらの疑問もまた、同時に氷解した。
そのことに気が付いたのは、昨夏、章立てを決める予備作業として掲載作品を順次読み直したときだった。編者の他のおふたりとは違い、私は西川先生の学生や院生としてゼミに出席したことがない。先生の後任者となったご縁で指導していただいたことは数多くあったし、巻頭の最終講義ほか何本かの講演は直接拝聴したが、正直なところ先生の歴史観を掴みかねていた。そういう私にとってこの作業は、論集で先生が読者に訴えたかったことを読み取り、そこにある歴史観を理解する絶好の機会だった。
講演をもとにした作品が多いこともあり、読み進めるうちに淡々と語る先生の声が聞こえてくるようだった。ノートを取ると相互に関連した3本の柱が浮かび上がってきた。第1に、(A)歴史研究における方法、とくに史料批判について、第2に、(B)日本におけるヨーロッパ近代史研究の意味について、そして最後に、(C)「世界史」の構築と歴史教育をめぐる諸問題についてである。
これら三者は次のような関係にあると言えるだろう。(A)は歴史学の共有財産であり、西川先生にとって「自前の歴史学」を構築するうえで不可欠な要素である。そして、これによって単なる後追いや受け売りではない、そして、ヨーロッパの研究者と対等に論じ合うことのできる、真の意味での(B)を追究することが可能となる。その逆に、(B)を深めることは(A)の発展につながり、借り物ではない方法論を作り出すことになる。他方、西川先生は(C)を支えるものとして、とりわけアジアの歴史家との対話を重視している。先述した(B)の追究は自己に向けられたものとしての近代ヨーロッパ批判という意味で、この(C)の対話を促し、豊かにする力となる。また、(C)で育まれた対話を反映して、(B)ではヨーロッパと日本の近代を再検討する可能性を広げることになる。(A)と(C)も、同様に関連しあっている。(A)にもとづく実証研究こそが、ナショナリズムを越えた(C)の検討を実現しうるのであり、また、(C)の問題に取り組むことをつうじて(A)の方法論が鍛えられるのである。
恥ずかしながら私はそれまで、西川先生はあまり理論に頓着していないのだと思い込んでいた。理論よりも実証を重視し、ひたすら調べ尽くす態度を貫くことが先生のスタイルだと思っていた。たしかにそう考えるのも、あながち間違いではないだろう。「突き詰めて言えば、歴史は穿鑿だよ」とおっしゃるのを聞いたことがあるし、実際、少しでも気になることがあると、先生はいてもたってもいられなくなるようで、ご自宅では書庫から関連文献を持ち出し、研究会では鞄から電子辞書を取り出して調べておられる場面に何度も遭遇した。また、他人が知っていそうにないマニアックな知識をさりげなく披露するときの嬉しそうな表情は、ご存じのかたも多いに違いない。けれども、「調べ魔西川正雄」という認識は、まさに木を見て森を見ずだったのだと、今回私は思い知った。当たり前のことではあるが、史料批判はそれ自体が目的なのではない。それはあくまでも歴史研究のプロセスのひとつであり、全体を見る目と結びつくことによってのみ意味を持つ。だからこそ、実証という作業は、研究を支える揺るぎない要として、ひとつひとつを疎かにすることなく積み上げていかなければならない。そうすることではじめて、歴史学は他者との対話を可能とする、未来に開かれたものとなる。
遺された構想メモを手掛かりに、西川先生のお考えを私なりに考えた結果、到達したのがこのような歴史観だった。整合性のあるところが、いかにも何事につけても端正な先生らしく思える。しかしその半面、あまりにもすっきりとしすぎているので、本当にこうだったのだろうかと不安にも思う。今となっては、どうなのですか、とご本人にお尋ねする訳にもいかないが、もしうかがうことができたとしたら、先生はどうお答えになるだろう。呆れ顔で「なんだ、今頃気がついたのか」とおっしゃるだろうか。それとも、「それは違うな」と言ってニヤリと笑われるか。呆れられても、前者だと嬉しいのだけれど。
[ひぐらし みなこ/専修大学文学部准教授]