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  • PR誌『評論』177号:福島自由民権と門奈茂次郎1 河野広中との出会い

福島自由民権と門奈茂次郎1 河野広中との出会い

西川純子

三春町歴史民俗博物館
去年の4月に福島県の三春へ滝桜の見物に行った。春が早くて肝心の桜は散ってしまっていたが、三春町歴史民俗博物館を訪れることができたのは収穫であった。この博物館には自由民権記念館の一棟があり、そこには福島県の自由民権運動ゆかりの資料が集められている。以前にそこを訪れたことのある友人から門奈茂次郎(1861~1940)の写真が展示されていると聞いていたので、ひとつこの機会にのぞいてみようと思ったのである。門奈茂次郎は私の父方の祖父である。会津に生まれ、戊辰戦争のときには年齢が足りなくて白虎隊に入り損ねたとよく聞かされてきた。祖父は太平洋戦争直前、私が六歳のときに亡くなったから、詳しいことを直接聞いているわけではない。私に残る祖父の記憶は、お正月になると先祖伝来の大刀を持ち出して白いパフのようなもので念入りにたたいてから、恭しく家族一同に拝謁させるという家父長的な振る舞いである。祖父が父よりも偉い絶対的な家長であることは、父の態度をみれば明らかであった。父はすでに食客にすぎなくなっていた祖父に対して朝夕の挨拶を欠かさず、話すときは常に敬語を用いていた。あれは本当に尊敬の念を抱いていたからなのか、それとも単に儒教精神の表れなのか、いずれにせよ、祖父からも父からも自由だの民権だのという雰囲気は微塵も伝わってこない環境に私は育ったのである。

河野広中との出会い
歴史民俗博物館の前には河野広中の銅像が立っていた。板垣退助と同じような髭を生やし、両手を未来に広げるかのように屹立する福島の民権運動の指導者はすこぶる格好がよい。この河野広中と門奈茂次郎はどう結びつくのだろうか。三春の出身で福島自由民権運動研究家の高橋哲夫氏によれば、茂次郎に河野広中を紹介したのは板垣退助であったという。当時、栃木県栃木町で巡査をしていた茂次郎が板垣宛に手紙を出したのがそもそもの始まりであった(高橋哲夫『明治の士族』、歴史春秋社、1980)。その間の事情については野島幾太郎が次のように記している。「去る明治15年の交、栃木町の警察署に奇骨男児あり。姓は門奈、名は茂次郎。隣県福島若松の士族、在職4ヵ年、一等巡査たり。巡査部長たり。1日同町の常願寺において開会せし自由党政談演説会に臨監し、その演説を筆記す。しかして弁士の1人、馬場辰猪の演説に感奮し、翌日辞表を提出して若松に帰り、その年九月、政治的運動を目的として出京し、芝区三田町の和雲屋に滞在し、翌日帰県し、無名館を訪い、5、6日滞在、自由主義の下に政党的奔走を事としたり」(野島幾太郎『加波山事件 民権派激挙の記録』、平凡社、1966)。板垣からの返書を得て上京した茂次郎は、板垣の仲介によって、たまたま東京に滞在していた河野に会い、河野に説得されて福島に舞い戻ったのである。
当時、福島では薩摩出身の三島通庸が県令として着任していた。彼は自由党を撲滅することを信条としていたから、県議会議長として福島自由党を率いる河野広中とは真っ向から対立していた。明治15年といえば、国会開設の勅諭が発布された翌年のことである。国会期成同盟と自由党との合同が実現して自由民権運動はかつてない盛り上がりをみせていた。上京して華々しい民権運動に身を投じようとしていた茂次郎は、郷里での反三島闘争に力を貸してほしいという河野の頼みもだしがたく、折角内定していた東京での某新聞社への入社を断念して、河野から10円の旅費と無名館への紹介状を受け取ったのである。板垣退助の外遊問題をめぐる自由党の内紛に巻き込まれて東京を離れることのできなかった河野は、とりあえず、自分の代わりに茂次郎を福島に送り込もうとしたのであった(高橋哲夫『福島民権家列伝』、福島民報社、一九六七)。福島では、茂次郎がかつて会津藩で苦労を分け合った旧士族の多くが三島の差し金で帝政党をつくり、自由民権運動弾圧の走狗となっていた。   [にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]