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  • PR誌『評論』177号:金融資産と経済学  ──「ポスト・ケインズ派経済学研究会」発足30周年(下)

金融資産と経済学  ──「ポスト・ケインズ派経済学研究会」発足30周年(下)

野下保利

ポスト・ケインズ派経済学研究会にいつ入ったのか、正確な記憶はない。20数年前だろうか。研究会が中央大学で開かれていた頃だ。報告する故・高須賀義博先生について行き、その後の飲み会で入会したことだけは覚えている。入会後、ケインズ理論を貨幣的経済分析として捉えるアプローチに共感するようになった。
預金や証券といった金融資産は、不思議な資本である。それらは単なる契約・約束にすぎない。直接に食べたり着たりできないし、多くは実物財と直接に交換することもできない。しかもほとんどの金融資産の裏側には債務があり、価格変動を考慮しないとすれば相殺されてしまう。それにもかかわらず、金融資産は経済全体の動きに甚大な影響を及ぼす。今回の世界金融危機においても、金融資産と経済との関連をめぐって政策当局者の間に深刻な対立が生まれている。すなわち、資産バブルは崩壊後に対処しても制御可能であるのか、あるいは資産バブル形成段階から制御すべきなのか。結局のところ問われているのは、経済理論における金融資産の位置づけである。
19世紀末から20世紀初頭にかけて利子論を資本利子論に転換した新古典派創始者たちの著作を読むと、彼らが巨大化した固定資本と並んで長期貸付や株式・債券などの金融資産とその運動を古典派体系に組み込もうと苦闘していたことがわかる。この時期に価値論も主観価値説に転換するが、ここで奇妙なネジレが生じる。実物財の価値が自然や生産現場の制約なしに主観的に、つまりは単なる将来収益の約束でしかない金融資産価格と同じように決定できるとされる一方で、経済の本質はあくまで実物財の生産・分配にあり、金融資産の存在は本質的な意味をもたないと把握されるのである。
もっとも、その根拠づけは様々で、貯蓄や貸付は一時的にしか生産力増大に寄与しないというオーストリア学派や貸付資金説の説明もあれば、金融資産の運動は実物財の投影ないし仮象にすぎずせいぜい錯覚を生むだけであるというフィッシャーらアメリカ新古典派の説明もあるが。
第二次大戦後は、管理通貨制度の下で金融資産、とりわけ証券取引が活発化し、その拡大と収縮にともなってインフレや通貨危機などの経済混乱が60年代後半以降繰り返された。しかし新古典派はウォールストリートを弁護するかのように、金融資産取引と経済混乱との関連の分析を避け、混乱をマネーサプライやインフレ期待など中央銀行の政策目標変数と関連づける分析ばかりを行ってきた。
最近型のニューケインジアンDSGEモデルも、金融資産を本格的に組み込む枠組みをもたない。ネオワルラシアン体系に金融要因を組み込むことは可能であろうが、そうする根拠はアドホックなものでしかない。新古典派とは、金融資産の運動が実物経済に本質的影響を与えないことを説明するために創られた経済学大系である、と定義することさえ可能である。
現実の経済の特徴は、新古典派の見解と逆である。金融資産の運動は実物資産の運動とは異なる特性と構造をもっており、実物経済全体に、短期的にだけでなく長期的にも影響を及ぼす。実物財の生産は社会が再生産されるための必要条件ではあるが、それは特定のインセンティブ体系の下でのみ実現される。
「金儲け」をインセンティブとする経済では、金融資産の売買差益を狙うだけで実物財の生産を直接には伴わない資本運動も、立派に合理的な存在となる。それゆえ現代において分析すべきは「金融資産を伴う経済における生産・分配・雇用の決定」なのである。この認識は今日、重要性を著しく増している。ケインズの意義もポスト・ケインジアンの神髄も、この認識に立って経済理論を構築しようとする点にある。
今日、国際金融システムは混迷の渦中にある。だが、金融取引が債権債務の伸張を通じて間接的にであれ実物面の経済関係拡大を主導しているのであれば、金融経済の再生なしにはグローバリゼーションあるいは人類の協働性の前進はない。現代が直面する喫緊の課題に挑戦してこそ、批判派や異端派としての存在を超えるポスト・ケインズ派の意義が明らかになるように思われる。金融資産運動の特性や支持構造、そしてマクロ経済的含意の研究を前進・深化させる必要がある。       [のした やすとし/国士舘大学政経学部教授]