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  • PR誌『評論』228号:シリーズ 経済思想へのいざない④ 渋沢栄一の「思想」を再検討する視点

シリーズ 経済思想へのいざない④ 渋沢栄一の「思想」を再検討する視点

見城 悌治

本コラムは、「経済人」渋沢栄一がある事件に直面した時に、飛び交った議論(評価)を俎上にあげる中で、同時代の経済思想を読み取るとともに、歴史性を勘案した評価が行なわれるべきことを述べていきたい。

渋沢栄一(1840~1931)の評価については、その逝去時に、経済史学者の土屋喬雄が「日本資本主義の父」と述べたことが、それ以降の研究を拘束するほどの影響力を持つ。筆者は、2006年に『渋沢栄一(評伝 日本の経済思想)』を日本経済評論社から発刊する縁を得た際、土屋的な観点は相対的に抑え、道徳思想との関連や国際関係面などにも力点を置いた。また、他の評伝で扱われることが少ない「日糖事件」をめぐる言説にも紙幅を割いた。それは渋沢を「偉人」として描き出すのでなく、「負」と見なされた事例も併せ見る中、経済思想史における渋沢の役割を再検討したかったためである。ここでも、再びこの視点を取り上げたい。 

まず「日糖事件」の概要である。大日本製糖株式会社(日糖)の相談役であった渋沢は、1909年1月に同社の経営をめぐる混乱から、役を辞す。しかし、同年四月から政界工作を行った大疑獄事件へと展開し、渋沢も批判の渦中に投げ込まれる。

『実業之世界』1909年5月号は、事件を受け、「十五大名士の男爵渋沢評論」という特集を組み、その冒頭には「日本第一の実業家であると言う世の定評はとして動かすべからざるものであるが、最近の男爵は、端なくも紛々たる衆評の火中に樹って居る。(略)十五名士の評論は、やがて実業家が社会に立つべき根本義を披瀝したものではあるまいか」との主旨説明が掲げられた。

「名士」の一人目は大隈重信である。長らく旧知であった大隈は「アレは英雄でもない。豪傑でもない。情に脆い人である。(略)親の心子知らずで、せっかく渋沢が親切に世話をしてもその部下のものが失敗する。(略)事業界の未だ完成していない日本には、やはり渋沢のような人が必要だ」とした。

後藤新平も同様な観点からの評価を与える。「自ら進んで非常な難局に立ち、非常な面倒を引受けて居る。(略)彼は立派な国士という事が出来る。(略──ただとして)八方に好意を表せんとする処からして、多少十分なる責任を尽す事の出来ない場合がある。しかしながら、これは彼の罪というよりも、むしろ社会の罪である」。

二名のコメントは、「事業界」が未完成な日本には、「八方美人」的な渋沢の役割が必要であるという点にあった。後藤が言う「それは社会の罪である」との指摘も、「未完成な時代」を射抜く金言であったと考えられる。

一方、渋沢を批判する見解には、複数の会社の相談役等に就くのは「何でも御座れ」の態度であり、「社会を欺いている」、「一度退隠して新進気鋭の人」に任せればよい(井上角五郎)等があった。

この特集は、渋沢本人による弁明「事業に対する余の理想を披瀝して日糖問題の責任に及ぶ」も載せている。①自分の商売には断じて秘密がない、②会社および株主に対する重役の覚悟が必要、③「殿様重役、デモ重役、悪徳重役」とは異なり、「経世済民」を理想とした事業経営をしている、④公私の別を明らかにしていると、渋沢は自らの「思想」を切々と訴えた。さらに、私が「多くの営利事業に顔を出す」と世間は攻撃するが、不正をしても、渋沢が何とかしてくれるとの依頼心を持つのは、全くの心得違いだ。それを責めず、「渋沢が関係しているのが悪い」とされるのは、残忍な仕打ちであると反論した。

しかし、報道がさらに喧しくなった同年六月六日、渋沢は「古稀」を理由に、第一銀行などを除き、他社における役職の辞去を宣言した。「一人で数会社の重役を兼任するということは、全く好むべきことではない。このごときは経済界の複雑に赴くに従って、各種の弊害を生ずるを免れぬのである。ここにおいて、余が各社の重役兼任を辞せん事の決心は、多年の希望であったので、今日はじめて決心を起した訳でない」(岩崎徂堂『渋沢男爵百話』1909年)。

『東京朝日新聞』(1909年6月10日付)は、銀行を本業としていた渋沢は、その一方で、多くの事業に関係していたため、非難を受けている。「大日本製糖会社をはじめ、不始末を曝露せしもの少なからざるなり。かくのごときは決して彼の老いたるがためにあらず。経済界の原動力がそれぞれその強壮時期に入り、それぞれの働きをなし、かつ複雑となり、また微妙となり、いかに勢力絶倫の彼といえども、その注意が隅々までも行渡らざる様になりたるがため」と、社会の現実と渋沢の方針との齟齬を指摘した。

さらに『中央公論』1909年12月号は、「現代人物評論 渋沢栄一論」を組み、七名の寄稿を掲載した。その中では「風満楼」なる筆者の論が興味深い。「町村がとにかく自治制とまでに進歩した今の世には、もはや丁髷頭の庄屋老人の教訓指導を要せざるがごとく、いくら旧思想で煉り固めた我が実業界とて、今日ではすでに渋沢氏を過去の人として葬ってよいのである。イヤ事実においてはすでにこれを葬り去った。(略)全世界に漂う民主的空気が、頑冥固陋な日本の実業界にも流れ込んで、渋沢と言う偶像の金箔を剥がした」云々。つまり、「民主的空気」という新時代の思潮の台頭と渋沢の退場を対比する議論を展開していたのである。

以上、渋沢栄一をめぐる1909年の言説のごく一部を見てきた。ここからは、「渋沢的な役割は終焉した」との指摘が看取できる。たしかに往時の経済をめぐる思想や政策は、国際社会の複雑化なども併せ、大きく転じていたのは事実である。

その後、経済界の第一線から身をひいた渋沢は、「論語算盤論」を本格的に鼓吹し、社会一般のみならず国際社会における道徳の必要性も述べていく。大きく括れば、「公益思想」を訴える方向にシフトしていくのである(筆者は「渋沢栄一による歴史人物評伝出版とその思想」(『近代東アジアの経済倫理とその実践』日本経済評論社、2009年)ほかで、渋沢について、そうした観点からの再評価を試みているが、その詳細は省略したい)。

渋沢による経済活動、また公益活動に関わる思想は、今日でも汲むべき点が多い。しかしそれを自明視せず、その思想評価は、往時の課題や想いを映じて構築され、また社会の移ろいとともに、転じていくことを忘れてはいけない(もちろん、現在与えられている諸事の評価も時代に規定・拘束されている側面があることも同じである)。 

経済思想史研究において、「経済人の思想」を扱うことは重要な課題である。しかし、特定の人物を端から「偉人」視せず、同時代における評価を掘り下げることが、その人物の歴史的評価にとどまらぬ「時代の思想」を読み取ることに繫がっていくと筆者は考えている。

[けんじょう ていじ/千葉大学大学院国際学術研究院教授]