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特集●関東大震災から一〇〇年 「関東大震災百年」と朝鮮人虐殺

田中 正敬

私が関東大震災朝鮮人虐殺問題に初めて接する機会を得たのは、1993年の震災70年の際だった。所属する朝鮮史研究会が「関東大震災七〇周年記念集会」の参加団体となり、幹事のなかで最も若かった私が集会の実行委員会に派遣されたのである。

この頃は震災の体験者もご健在であり、姜徳相氏をはじめとする研究者も活発な研究活動を続けておられた。その一人の松尾章一氏を監修者として、法政大学や防衛省、東京都公文書館等に収蔵されている公文書を中心に調査と史料集の編集が進められ、その成果は日本経済評論社から『関東大震災政府陸海軍関係史料』(全三巻、1997年)として刊行された。編集者の末席に参加させていただいたことが、関東大震災朝鮮人虐殺関連史料の概要を理解することに大いに役立った。

この史料集を含めて、日本経済評論社には関東大震災朝鮮人虐殺に関する書籍を積極的に出していただいた。七〇周年記念集会、八〇周年記念集会、九〇周年記念集会の記録はそれぞれ、日本経済評論社より『この歴史永遠に忘れず』、『世界史としての関東大震災』、『関東大震災──記憶の継承』として刊行されている。これらを読み比べると、その時々の時代の移り変わりと問題意識の変化がよくわかる。

震災七〇年の記録集では「犠牲者追悼・体験・証言」という項目があったが、八〇年の記録集では独立した項目として体験者の証言を載せることはできなくなった。一方、「世界から見た関東大震災史」という企画を立て、海外の研究者との交流が目指された。

九〇年の記録集ではタイトルのように「震災の記憶」がテーマの一つとなった。この時期には、体験者の証言を直接に聞く機会はもちろん、虐殺が起こった地域で調査が本格的に行われるようになった1970年代、80年代から多くの時間を経過して、これをいかに受け継ぐかという課題が表面化したのである。ひとつひとつの歴史の証言とそれを丹念に集めてきた営みを次世代に伝えるために、その記録を取っておかなければならないということが意識された。

私もこうした集会に関わりを持つなかで、地域の調査を記録に残す必要性を強く感じるようになった。2006年11月に参加した横浜でのフィールドワークを契機として、大学院のゼミで取り組みを進めることとした。

翌年より千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会のみなさんに、船橋、習志野、八千代市のあちこちを案内していただいた。ビデオとICレコーダーの操作に四苦八苦しながら虐殺が起こった地域を回り、厚かましく家にまで押しかけて史料を拝見したり長時間のインタビューを行ったりもした。その成果は『地域に学ぶ関東大震災』(2012年)に結実した。これも日本経済評論社にお世話になった本である。

この間、特に2000年代の後半あたりから、朝鮮人虐殺に関する歴史修正主義の議論が顕著になってきた。いわゆるヘイトスピーチに象徴される排外的な言動と深く結びついたものである。論者は、朝鮮人が集団的な暴動をしているという当時の流言、あるいは認識は事実であり、朝鮮人を殺したのは「正当防衛」だという。もう一つ、一見実証的な態度を取りつつ、朝鮮人犠牲者数をできるだけ少なく見せようとするのも、朝鮮人虐殺に関する修正主義的な議論の特徴である。なお、犠牲者数の操作の手法は加藤直樹『トリック──「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』(ころから、2019年)で明らかにされている。

ここに見られる朝鮮人虐殺を正当化しようとする論理を辿ると、震災後における政府の宣伝に行き着く。政府は9月5日、戒厳司令部内で開かれたと思われる会合の申し合わせで、朝鮮人による「犯罪」を徹底的に調査し、これを肯定する方針を決定した(詳しくは山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺』創史社、2003年)。実際には流言のような朝鮮人による犯罪はなかったのでこの試みは失敗したが、政府がここまで流言を肯定しようとしたのは、自らが朝鮮人虐殺を引き起こした責任を回避するためだろう。朝鮮人犠牲者の遺体を隠蔽したのも同じ理由からである(同右書、参照)。

ここで指摘したいことは、なぜ虐殺正当化論者たちがことさら犠牲者数に目を向けさせるのかということである。第一に犠牲者数の多少を問題にすることが事件の本質を見失わせるためだということである。彼らは事件を過小評価したいが故に犠牲者数を少なく見せようとしているに過ぎない。そして、個々の犠牲者の名前は集合体のなかに埋もれてしまうのである。

第二に、六千人余という犠牲者数およびこれを調査した朝鮮人同胞を攻撃することが目的ということである。そこには、虐殺の被害を正確たらしめようなどという発想は存在しない。

犠牲者の調査をした朝鮮人同胞たちは、官憲の弾圧を避けるために「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」という名称の団体名で犠牲者の調査を行った。だが、調査の妨害のなかでは同胞たちは十分な調査を行うことなど不可能であった。1923年12月、上海の大韓民国臨時政府『独立新聞』に掲載された調査報告には、遺体の数を全て確認することはできなかったと書いている。

虐殺者数六千人が正確であるかどうかが不明であるのは、日本政府がきちんと犠牲者および心身に傷害を受けた被害者の調査を公表しなかったためであり、朝鮮人を非難するのはお門違いである。そもそも、日本政府が朝鮮人襲来の流言を流して住民らに警戒するよう指示し、自らも手を下さなければ、これほどの事件は起こらなかったはずだ。日本の過去を貶められたくないと考える人びとは、なぜそのような過去を生み出した政府を責めないのか。

今や、虐殺は正当防衛だなどと公言する文章が堂々と出され、「さまざまな見方」の一つとして市民権を得ている。東京都の横網町公園では、朝鮮人犠牲者追悼行事のすぐ脇で、同時刻に犠牲者を攻撃する集会が開催される。そしてそれを認可し朝鮮人犠牲者への追悼を拒否する東京都知事がいる。その意思を慮った都庁の役人が、朝鮮人虐殺に触れた映画の上映を禁止する。

虐殺を正当化する論理の登場は、体験者が亡くなり関東大震災がまぎれもなく「過去の歴史」になったこととも関係している。そうした時代にあって、関東大震災時のジェノサイドを私たちがどれだけリアリティーをもって認識できるか、その人権感覚が問われているように思えるのである。

[たなか まさたか/専修大学教授]