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シリーズ 経済思想へのいざない③ 戦時期の経済思想

牧野 邦昭

日本の戦時期の定義は研究者によって異なるが、ここでは主に昭和10年代から太平洋戦争期の日本を戦時期とし、その間に展開された経済思想について取り上げたい(詳細は、牧野邦昭『新版 戦時下の経済学者──経済学と総力戦』中公選書、2020年を参照していただきたい)。

戦後、「なぜ日本は戦争へと向かったのか、それを止められなかったのか」という観点から政治学や思想史において戦時期の研究が盛んになり、また経済史においても戦時経済に関する研究は行われてきた。その一方で、経済思想史研究においては、そもそも近代以降の日本の経済思想に関する研究が十分に行われてこなかったこともあり、戦時期の経済思想に関する研究は低調であった。マルクス経済学の立場からは戦時期はマルクス主義が弾圧された時期であり、一方でいわゆる近代経済学の立場からも「欧米の経済学が批判され政治経済学、日本経済学、皇道経済学などのよくわからない経済学が流行り、合理的な思考が抑圧された時期」といった形で扱われ、戦時期の経済思想は研究に値するものとはみなされない傾向があった。実際にはマルクス経済学者も近代経済学者も総力戦の中で陸海軍や政府など多くの公的な仕事に関与していたり、知識人として発言を求められたりしていたが、戦後しばらくは戦時期にも活動した経済学者やその門下生が存命だったこともあり、戦時期の経済思想を扱うことがためらわれる雰囲気が続いた。筆者が戦時期の経済思想の研究を始めた20年ほど前にはまだ戦時期の経済思想を非合理的なものとして切って捨てたり、扱いにくいものとしたりする雰囲気が少し残っていたように思う(一部ではまだ残っているかもしれない)。

しかし太平洋戦争終戦から長い年月が経ち、戦時期を客観的に振り返ることのできる雰囲気も醸成されてきた。それと同時に進んだのがオンラインデータベースの飛躍的な充実である。それまでは図書館や公文書館に直接出向かないと所蔵が確認できなかった資料がウェブで一瞬で所在の確認が行えるようになったこと、さらには国立公文書館アジア歴史資料センターや国立国会図書館デジタルコレクションなどを利用して端末で資料そのものを閲覧できるようになったことは、特に戦時期の経済思想研究の可能性を一気に拡大させるものであった。

もちろんデジタル化されていない資料を新たに発掘し整理することも依然として重要であり、筆者にとっては名古屋大学に所蔵されている「荒木光太郎文書」(戦前の東京帝国大学経済学部教授を務めた荒木光太郎の旧蔵文書)の整理と研究、公開に長く関わってきたことも大変有益であった。2015年に日本経済評論社から刊行した『柴田敬(評伝・日本の経済思想)』や、2018年の『経済学者たちの日米開戦』(新潮選書)などの拙著は、こうした環境変化や研究の成果により刊行できたものである。

では、近年の戦時期の経済思想研究からどのようなことがわかってきたのだろうか。私見を述べると、まず、従来の経済学を批判する形で政治的要素を加えた「政治経済学」や日本の独自性に基づく「日本経済学」などの構築が主張された背景として、当時の経済学の混乱があった。現在のようにミクロ経済学やマクロ経済学の体系が確立されておらず、古典派経済学が正当化する自由経済体制が世界恐慌により崩壊する中で、世界的に新たな経済体制と経済学が模索されていた。それに加え、明治以降の日本では急速に近代化を進めるためにアダム・スミスなどの古典派経済学、歴史学派、限界革命後の経済学までが同時に「経済学」として流入してきた。そのため当時の日本では「経済学とは何か」がそもそも不明確な状態であり、それゆえに「政治経済学」「日本経済学」などの構築を訴える主張が受け入れられやすかった。こうした混沌とした状態だったがゆえに、日本ではマルクス主義がイギリス古典派経済学・ドイツ観念論哲学・フランス社会主義思想を統合する明確な体系として広く受け入れられる一方、数理的で明快に経済全体を記述する一般均衡理論(当時の日本の言い方では「純粋経済学」)が戦時期に急速に普及することになった。

また、総力戦においては兵器や軍需物資の大量生産、戦費調達、インフレ抑制などの様々な経済的課題が発生する。さらに自国や同盟国、そして敵国の経済力がどのように推移していくかという予測も必要になる。これらのためには当然のことながら観念的な経済思想ではなく統計とモデルを使った分析が必要である。そのため戦時期においては官庁内や政府・軍のかかわる研究機関内で実務的な必要性のために経済理論研究や統計を用いた経済分析がむしろ盛んになる。英米の経済理論書が盛んに翻訳やリプリントされ、官庁では乗数理論や加速度原理を応用したインフレ対策が検討され、産業連関表を使った国民所得推計が試みられる。高級官僚を選抜する高等試験(現在の国家公務員総合職試験に相当)では経済学が必須科目で現在でも通用する理論的問題が出題されており、それへの対策のために、一般均衡理論に基づきながらケインズ理論も取り入れた高田保馬の経済学教科書が受験生に熱心に読まれていた。もちろん現在のミクロ経済学やマクロ経済学は戦後のアメリカの経済学からの影響が強いが、それが可能だったのは戦時期に総力戦に対応するために経済学研究が盛んに行なわれていたためである。そして政府内外での研究に従事した経済学者や官僚たちは、戦時期の経験を戦後復興や高度成長における経済政策に生かしていく。

他方、戦時期において経済思想は政治やイデオロギー対立に巻き込まれる。マルクス主義が弾圧される一方でナチスドイツやソ連の五か年計画などが統制経済の運営において参考にされる中、私有財産権を保障する大日本帝国憲法を守ろうとする財界や観念右翼は統制経済の推進者を「アカ」(共産主義者)と攻撃して、逆に当時の言い方での「純粋経済学」を資本主義を正当化する経済学として持ち上げる。一方で「近代の超克」が叫ばれる風潮の中では従来の古典派経済学や「純粋経済学」は乗り越えられるべき「近代経済学」とみなされ批判の対象ともなる。さらに戦後には資本主義的なものを「近代主義」とみなすマルクス主義からの批判もあり、マルクス経済学以外の経済学が一括して「近代経済学」と呼ばれるようになっていく。

このように見てみると、日本の戦時期の経済思想は実は戦後の経済学や経済政策にも大きく影響していることがわかる。また戦争やイデオロギー対立はまさに現代の社会が直面する問題でもあり、それらと経済(学)との関わりも重要な課題となっている。すでに述べたように戦時期の経済思想研究を行っていく環境は近年に入って整ってきている。引き続き現代的な問題を念頭に置きつつ、戦時期の経済思想研究を進めていきたい。

[まきの くにあき/慶應義塾大学教授]