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ショーほど素敵な商売はない──勝本章子さんの思い出

中川 辰洋

「本日はレナード・バーンスタイン氏にご臨席を賜りました」

割れんばかりの拍手に背中を押されて舞台に上がったバーンスタイン氏は出演者たちを労い観客に一礼してのち舞台の袖に向かって歩を進め、小柄な東洋人女性の前で立ち止まった。それから身をかがめてその頬にキスをするや、観客はみな席を立って拍手を送った。

「翌日」と、勝本章子さんは言った。「翌日、舞台監督に呼ばれて言われました。バーンスタイン氏の〝アプローズ〟を賜った最初の日本人の君に敬意を表して原作にはない役を急ぎつくるから稽古をするように」。ウィーンのに出演した時のことだという。母校の国立音楽大学の有馬大五郎学長が1960年代央に招聘した世界的声楽家ヒルデ・ツァデク氏(のち宮廷歌手)が帰国直前に言った「ウィーンにいらっしゃい」の一言がきっかけでシベリア鉄道を乗り継ぎウィーンの土を踏んで3年ほど経っていた。

勝本さんによると、約1年間ウィーン音楽院で学んだのち、ヨーロッパ各国の主要都市の、さらには旧ソ連やアメリカの舞台に立ったが、メインはやはりウィーン。国民歌劇場、カンマーオーパー、ÖRT(オーストリア放送協会)主催の各種コンサートに出演して高い評価を受けた。恩師のツァデク氏だけでなく、バーンスタイン氏もまた小柄な東洋人の歌い手の才能を見逃さなかった。それに時の文教大臣アロイス・モック氏と夫人のイデットさんもÖRTの番組で歌うアキコ・カツモトを観て熱烈なファンになった。

勝本さんはのちの外務大臣夫妻との交流がはじまって間もない1970年代初頭に帰国するも直後に開催された帰国記念リサイタルは大盛況だった。日本最初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士が最も信頼した音楽通で音に聞く理論物理学者の武谷三男先生がある音楽誌に寄稿した評論が雄弁に物語っている。勝本さんが生涯〝メントール〟と仰ぎ慕った武谷先生との交流はここから始まる。

それからというもの勝本さんは引っ張りダコ、なかでも黛敏郎氏の冠番組「題名のない音楽会」は半ばレギュラーで、小澤征爾さん、立川澄人さんらと共演したことをご記憶の方も多いと思われる。これと並行して、母校で後進の教育・指導にあたり多くの声楽家を育てたけれど、わがむすめも欠かさず観ていたアニメ『アンパンマン』の主題歌を歌う音楽ユニット〝ドリーミング〟の寺田姉妹が勝本教室の出身であることはあまり知られていない。

勝本さんがそんな著名人とはつゆ知らず、同じマンションの住民という縁で武谷先生を囲むお食事会に呼ばれるようになった。声楽といえば、筆者が高校生時代に仏語を独学するきっかけとなったジェラール・スゼーの歌うボードレールの「秋の歌」を聴いたほかはまったくの無知だった。だから、勝本さんには教えられることが多かった。曰く、「声楽家は芸術家で夢を売るのが商売です。しかめっ面で、エビのように腰を曲げて歌ってはだめ。どんなにむずかしい楽曲でも稽古に稽古を重ね笑顔で歌うのが声楽家です」。

「ツァデク先生のお稽古は厳しかったですよ」という勝本さんだが、2009年在外研究で家族と滞在したパリからウィーンに飛びベルヴェデーレ宮殿そばのウィーン市立音楽芸術大学の講堂で開催された恩師の名を冠する国際声楽コンクールでお目にかかったツァデク氏の教え子を見る眼差しは優しく誇らし気だった。後年、オーストリア政府主催のツァデク氏の受勲式に〝私の13人の秘蔵っ子〟の一人アキコを正式に招待したのも納得できる。

厳しいといえば言葉遣いもそうだった。勝本さんの講演原稿などの作成の役を武谷先生から引き継いで毎度苦心したが、大阪教育大学附属池田中学校の同窓会「皐会」の講演原稿の結びは難産だった。フォーレの「レクイエム」を紹介する口上に納得がいかず、記憶する限り20回ほど書き直した。精も魂も尽き果て苦しまぎれに「森羅万象生きとし生けるものすべてに捧げます」と切り出すと、「それで行きましょう」の一言がようやく口をついて出た。

フォーレの「レクイエム」は勝本さんのお気に入りの一つ。1973年フランス人のルイ・フレモー指揮でこれを演じた折、指揮者は名演中の名演と絶賛して引き取ったという。「『レクイエム』は二度としない。今日の演奏を超えるのは無理だからね」。けれど、いまも耳の底に残る名演奏のなかの有名な一節を勝本章子さんに贈ることに反対はしまい。

“[Domine]lux perpetua luceat eis” (〔主よ〕の光をしてかの者たちを輝かせ給え)

[なかがわ たつひろ/著述業]