追悼 下谷政弘さん

武田 晴人

下谷政弘さんの訃報が届いてすでに一月以上がたっているが、いまだに実感がわかない。先日、私のいる三井文庫から若手の研究者たちが住友史料館を訪問し、お元気な下谷さんにご挨拶したとの報告も受けていたから、いずれ近いうちに学会などでお会いできるのを楽しみにしていた矢先のことだった。

下谷さんは、私より5年ほど先輩で、金沢大学法文学部から京都大学大学院経済学研究科に進み、大阪経済大学を経て1980年に京都大学助教授、87年に同教授に就任した。2008年に京都大学を定年退官後に福井県立大学に移り、10年から16年まで同大学の学長を務め、その後住友史料館館長として住友研究の先頭に立ち、資料の公開などにも尽力していた。学術研究だけでなく、大学運営などにも手腕を発揮した下谷さんの功績は、この短いスペースでは語り尽くせない。

私が下谷さんに初めて会ったのは、京都の立命館大学で開かれた土地制度史学会(現、政治経済学・経済史学会大会)の大会だったと記憶する。いつものように受付で学会事務局の仕事をしていた私に、「君が、武田君か、下谷です」と声を掛けていただいた。第一印象は、小柄でまだ若いはずなのに風格があって、「さすがに京大の教授は違う」というもの。「東大教授の名刺ではツケでの飲食はできないが、京大教授は違う」という「都市伝説」が東京ではささやかれていたが、それを納得させるような貫禄のある姿だった。

そのころ、下谷さんは、過燐酸石灰工業などの日本の化学工業史を、堀江英一さんの「結合企業」の論理に学びながら、産業史の他の研究者とは異なり、コンビナートなどの工場の立地、大規模工場の作業場の配置などにも注目した独自の産業論を展開していた。「コンビナートこそ、産業構造、産業・企業組織、経営構造、ひいては外部経済とのかかわり合いの姿など、高成長・自由化・技術革新という新しい次元での日本の工業化過程に付随するあらゆる問題点を浮き彫りにしている」(下谷政弘『経済学用語考』日本経済評論社、2014年、38頁)という堀江さんの問題提起に共感されてのことだと思う。この独特の分析視角は、同じ産業史研究の駆け出しだった私が理解するには難しすぎた。風変わりな議論をする人が出てきたなという印象をいだくくらいの認識不足だったことを告白しておく。今であれば、それがすぐれて現代的な問題関心につながっているのだと分かる。

その後、下谷さんは戦時経済研究のなかで、産業企業内の空間的広がりというよりは、企業間の結合関係などに注意を払うようになり、戦時の企業に関する実証的な共同研究を中心になってまとめていくことになる。そして、その着想を基礎にして、企業グループや企業系列に関する議論などを下谷さんは深めていく。そして、1990年代には当時話題となっていた「持株会社解禁」の議論や持株会社論に論陣を張ることになった。2006年にまとめられた『持株会社の時代』(有斐閣)では、「日本経済の国際競争力の一つはその独特の企業間関係」にあるとの視点から、それがバブル崩壊後どのような変化を遂げつつあるのかを分析している。それは、すぐれて現状分析的な問題関心であり、歴史的な研究を基礎にしながらも、下谷さんが、日本経済の現状に鋭い問題関心を持つ分析家であったことを示している。それは、堀江さんの問題提起に共鳴して化学工業史研究に着手した若い頃から、一貫して持ち続けていたものだったことに気付かされる。

最近10年あまりは、少し趣を変えて経済史・経済学の分析の基礎にある概念の再検討にも力を入れるようになった。その成果が、いずれも日本経済評論社から刊行された『経済学用語考』(2014年)、『いわゆる財閥考』(2021年)である。漢字・漢語に造詣が深かった下谷さんらしい作品だが、丁寧な文献収集と読み込みによって積み上げられた成果が、その軽妙な筆致によってわかりやすく読者に語りかけてくるものである。後者は、住友史料館館長となったことも背景にあるのだろう。そのなかで、「財閥」という用語が使われはじめた起源についての私のミス、それは学問をするものとしては恥ずかしすぎるものだったが、これについてもさりげなく指摘されている。また、20年に私が書いた『日本経済の発展と財閥本社』や『異端の試み』についてのコメントもあり、下谷さんの誠実な研究姿勢に感服するばかりである。

このように下谷さんの研究からたくさんの刺激を受けてきた私だが、実は、下谷さんと膝を交えて研究上の議論を交わしたという記憶はあまりない。ほとんど接点のないまま、活字化されたお仕事を読んで学んできたのが実情である。そんな書物や論文を通した交流が続いた長い研究生活がおわり、2018年に私が住友史料館を訪問する機会をいただいたときに、下谷さんに連れられて昼食をご一緒したのが、いちばん親密な時間を過ごした最初だったように思う。そういうときの下谷さんは、話題も豊富で幅広い見識がにじみでる。私は、とても適わないなと思いながら、ただ聞き役になるだけであった。金沢の出身だから、生粋の京都人ではないのだが、「京の知識人」という風采、あの口もとのひげが似合う愛嬌のある顔が、強く脳裏に刻まれている。風格、貫禄に圧倒された第一印象に比べると、随分と柔らかな人柄を感じられる時間だった。

その後、私は三井文庫の仕事に携わるようになり、東西の代表的な企業史料館で、力をあわせて日本の財閥史研究を進めるため、これから幾度となくお話しをする機会があると期待していた。その対話のなかで、下谷さんがどんな斬新な着想で財閥史研究を中核とする経済史・経営史を方向づけてくれるか、考えるだけでもわくわくするものがあった。その機会が失われたことは、学界にとってとてつもなく大きな損失と嘆くほかない。伝え聞くところでは、長く病に伏せられていたわけではなく、予期しない突然の出来事であったから、まだやりたいこと、やるべきことの長いリストがあったに違いない。どこまでできるか分からないが、下谷さんの志を継いで、私のできることを模索していきたいと考えている。

それにしても、80歳を前にした急逝は本人としても無念であったと思う。心から哀悼の意を捧げ、ご冥福をお祈りしたい。

[たけだ はるひと/経済史家・三井文庫長]