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  • PR誌『評論』226号:『自由民権の家族史──新潟・山添武治家の近現代』刊行に寄せて

『自由民権の家族史──新潟・山添武治家の近現代』刊行に寄せて

高島 千代

本書は著者、横山真一が新潟県西蒲原郡の民権家・政治家である山添武治(1860-1914)とその家族の足跡を、膨大な関連史料に基づいてまとめあげた労作である。

著者が「はじめに」で記しているように、従来の自由民権運動研究において、民権家とその家族を視野に入れた研究は、史料的な制約もあり、十分な成果をあげてきたとはいえない。例えば民権家の妻たちは、特に自身が民権家でない限り、一人の人格・「個人」というより、男性民権家の思想形成や政治運動を支える者たちとして位置づけられ、意義づけられることが多かった。これに対して本書は、第一部を「山添武治の近代」として、20歳で新潟の自由民権運動に参加し、政治活動や人材育成・新聞経営に奔走していく山添武治の生涯をたどるとともに、第二部「山添武治家の近代」では、武治の妻・と五人の子どもたち(武・孝・直・三郎・正)一人一人の人生を明らかにしている。もとより、こうした叙述が可能になったのは、山添武治のご子孫による史料提供・ご協力があったからだが(「むすびにかえて」)、そうした「縁」は、自分の足で地域の史料・文書を探し、『黒埼町史』の編集執筆にも関わった著者だからこそ、恵まれたものだろう。地域の歴史・史料に真摯に向き合う氏の姿勢は、前著『新潟の青年自由民権運動』(梓出版社・2005年)にもよく示されている。

このように本書は「民権家と家族」という視点にたつ研究として、民権運動研究に一石を投ずるものとなっているが、成果はそれだけではない。第一部では、隣村の民権運動指導者・山際七司との関わりを軸に、武治の視点から民権運動期・初期議会期の政治史を描き出している。この時期の新潟における山際七司の存在は大きく、ともすれば山際の側近として陰に隠れてしまう武治だが、特に初期議会期の彼は、山際と「父子昆弟」の関係を結びつつも、時にはその徹底した国権拡張論の立場から決別覚悟で厳しく意見する同志でもあった。また青年民権家の思想形成という点からみれば、北越の青年・武治の土佐・薩摩など西南諸国への巡遊は、福島県三春の民権家・河野広中の高知訪問を想起させる。人材育成に際して庄内の黒崎与八郎(研堂、武治の妻・柱は黒崎の三女)に儒学や漢学の教えを請うている点は、中江兆民が明治以降、改めて漢学・儒学を学んだ姿に重なる。新潟毎日新聞の主筆として土佐から招聘した宇田友猪(『自由党史』の編纂者)との関係も興味深い。新潟の民権運動史・初期議会史、また民権期における「東北」「西南」概念、さらには著者が追究してきた「青年民権家」という枠組みについても、本書から得られる示唆は多い。

一方、第二部「山添武治家の近代」では、山添武治と家族として関わりをもった一人一人の自立した人生が描かれる。前述したように、著者が書きたかった家族は、民権家を中心としつつも、それに付随・奉仕したり、その威光を伝える家族ではなかった。ここで明らかにされているのは、伝統的な性別役割、親子としての役割を果し、武治不在の家庭を支えながらも、自らの主張をもち、あるいはもとうと苦闘し、自己の生を生きた人びとの姿である。柱が子どもを預けて漢学を習いに行き、また受洗してキリスト教徒になったくだりは、その意思を感じさせるエピソードだ。家族史の観点にたてば、山添武治家は、伝統家族と近代家族の両方の要素をあわせもっていたように思われる。

もしかすると著者は、民権家とその家族の歴史を通じて、明治・大正・昭和にわたる新潟のより大きな歴史過程を描き出したかったのかもしれない。しかし、時間は十分に残されていなかった。横山真一さんは2021年10月25日、本書の刊行をみることなく永眠された。病院のベッドの上で、亡くなる直前まで校正原稿に朱筆をいれておられたという(横山直子「刊行に寄せて」)。

なお本書は、このたび第二回江村栄一記念賞の自由民権学術賞を受賞した。江村栄一氏は、新潟をフィールドとした自由民権研究の泰斗だ。横山さんの晴れ姿をみられないことが残念でならないが、本書の努力がこうした形で報われたことを、研究仲間として心から喜びたい。

[たかしま ちよ/関西学院大学教授]