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女子の高等教育機関の創設と展開 ──『成瀬仁蔵と日本女子大学校の時代』をとおして

吉良 芳恵

コロナ禍のなかで本書の準備をすることになった。歴史を分析対象とする者も、感染症による歴史変動から逃れる術はないということであろう。

本書計画の背景には、日本女子大学校(以後日女と記す)の創設者成瀬仁蔵が、どのような思いで1901年に女子の高等教育機関を創設したのか、またその計画はどのような人々によって支持・支援されたのか、具体的な過程を明らかにしたいという思いがあった。さらに創設後の学校運営や課題などが明らかになれば、男女共学が普通の今日、女子大学の存在理由を考える上で、なにがしかのヒントになるのではないかと思ったのである。

ところでどのような著作でも、視点や分析方法が問われるのは当然であろう。もちろんその評価は読者に委ねるしかないのだが、本書が学校史の編纂ではなく、多様な視点を自由に論じることによって、日女創設の意義やその課題をいくらか明らかにすることができたのではないかと思っている。

第一部は、日女創設に関連する論考からなる。創設運動は、広岡浅子や土倉庄三郎など多くの人々の協力により開始されたが、こうした支援の背後にどのような状況があったのかがわかれば、創設の意味がより明確になるのではないかと思ったのである。広岡家の経営改革を解明した小林延人氏の論文や、同家の経営と美術品流出(コレクションの崩壊)との関係を分析した鈴木邦夫氏の論文は、その関連を解明し、歴史研究の奥深さを証明したといってもよい。また吉良は大阪での創設予定が東京に変更された経緯を、さらに鈴木氏は大学校の土地が三井家から寄付されたことを明らかにした。

第二部では、創設後の日女の有り様がさまざまな視点から論じられている。差波亜紀子氏は、平塚らいてう在学時の講義や成瀬の実践倫理講話をとおして、当時、結婚や社会のあり方への批判的授業が行われていたことや、一方でその急進性を懸念する声もあったことを明らかにしている。是恒香琳氏は、成瀬の教育理念が「良妻賢母主義」ではなく社会的存在としての人格の追求(女性の主体性)にあり、その具体化を、桜楓会の1918年の卒業生アンケートで分析した。一方、土金師子氏は、女子高等教育の対極にある養蚕を中心とした女子蚕業教育(蚕業技術・知識の普及や指導者養成を目的とする)を分析し、その特徴や基軸を明らかにしている。

臼杵陽氏は、成瀬の思想(宗教理解)の変遷を世界的新思潮との関係性に注目して考察し、その特徴を「関係主義」と記す。また井川克彦氏は、資金問題をとおして成瀬没後の女子総合大学設立運動について分析し、同窓会(桜楓会)の歴史的意味を明らかにしている。成瀬の思想や日女の経営に関する新しい成果といってよいだろう。

以上の論考には、創設資金や土地取得への多くの人々の協力・支援がなければ、若きキリスト者成瀬の計画は規模を縮小して開校するなど、何等かの変更を余儀なくされたことを想像させるものがある。教育者のみの努力で可能な事業規模ではなかったのである。それゆえ本書が教育そのものではなく、大学校創設の背景にある経済や社会状況等を分析したことの意味があると思われる。教育が社会と深い関係にあることの証左でもあろう。

日女という女子の高等教育機関の誕生は、教育の中央集権化や官立重視のなかで、私立の教育機関の有り様や性差等を考えさせることになったことは確かであろう。ちなみに寄付金募集については、成瀬がキリスト者であったことや、3年にわたるアメリカ留学で、女子の高等教育機関の創設や経営方法を学んできたことが関係していると思われる。

今後は、女性の権利に関する社会的主張と実態との乖離等を含め、卒業生のその後の生き方について研究が深まることが予想される。たとえば広岡浅子の支援を受け、『婦人週報』の編集者として活躍した小橋三四子などの研究はもっと行われてもよいだろう。ちなみに小橋は、広岡が週報の編集に「干渉がましい」ことをせず「自由に任せ」てくれたと証言している(『婦人週報』1919年2月14日)。広岡も日女に関わることにより共に成長していたことの証左であろう。

[きら よしえ/日本女子大学名誉教授]