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歴史の枠を越えた思想家・色川大吉 ――底辺の民衆にそそぐ厳しくもやさしい眼差し

新井 勝紘

色川大吉先生が「今日(9月7日)の早朝に亡くなったので、ついては追悼文を明日までに」との、共同通信社の記者からの電話で訃報を知って動揺し、追悼文云々という話を冷静には聞けなかった。遺言でご家族だけの密葬と聞き、北杜市までかけつけることは遠慮したほうがという気持ちと、独り住まいだった先生にもう一度お会いしたい心情がないまぜになって迷った。

ここ数年は、癌の手術をされ、転倒し車いす生活となっておられたが、いただいたハガキには「身心ともにボロボロになりつつあるが」「こんなことで負けて挫けてなるものか」とあった。昨年の賀状には、「小生もゆっくり大作の完成に向けて、歩きつづけています。〝斃れて後已む〟の気概」と意気軒昂だった。大作というのは、その年(2020)の秋に自費出版された上下二巻で650頁にも及ぶ『不知火海民衆史』(上・下巻、揺籃社)のことだろうか。石牟礼道子さんに懇望されて、水俣に五十歳代全部を使って通い続けた学術調査の最終報告である。何年経っても「朽ちない価値」があるからこそ、95歳になってもこだわるのだという。大作がこの書かどうかについてはもう聞けないが、水俣湾の汚染をこの目でみなければと、正式な潜水資格まで取得し、なんども潜った姿勢に、水俣への並々ならぬ意志をみることができる。

私が最初に先生に出会ったのは、六〇年安保闘争から5年後の1965年、東京経済大学の一般教養の日本史の授業だった。高校時代演劇部の活動にのめり込んだ私は、1年浪人し、もう1年働いたあとの入学だったので、自分なりの覚悟をもってのぞんだ大学生活だった。その初っ端に強烈なインパクトをもって現れたのが、色川先生だった。〝歴史家としては遅いスタートだ〟と自認し、最初の著作『明治精神史』(黄河書房、1964)が刊行されたばかりで、はじめてこの本を教科書にした講義だった。

受験日本史に苦しみ、歴史認識も幼く甘いものだった私の頭に、身ぶり手ぶりも入った独特な柔らかい語り口が一気に浸透してきた。のちに「色川節」ともいわれたが、毎週の講義が待ち遠しかった。講義では度々自著が引用され、その魅力ある文体と教室全体に漂う雰囲気に、私は間もなく魅入られてしまった。それは演出家を志して劇団員として活動した経験が下地にあったからだと、私はあとで知ることになる。その後私は所属した色川ゼミの1968年土蔵開け調査で、幸運にも「五日市憲法」発見に立ち会い、卒論にまとめ、のちに教授との共著を刊行することができた。いまその成果は、2015年に日本経済評論社から増補発刊された『五日市憲法草案とその起草者たち』(色川大吉編著)で再現されている。

色川史学をふり返る時、絶対に落とせないのが戦争体験である。学徒動員での召集、屈辱的な徴兵検査と軍隊生活、最後は海軍の特攻基地で、少尉の立場で部下の中から特攻隊員を選んで送り出し、自分は死なずに敗戦を迎えた苦渋の経験である。その深い心の傷跡を背負ったままの戦後出発だった。民衆史へ傾斜する色川史学の「底辺の視座」は、この体験なしには語れない。

学生の頃のことだが、冬になると先生は家族でスキーに出かけることがあり、私は泊まり込みの留守番をちょくちょく依頼されたことがある。同時に、締め切り間近の原稿の下書きをリライトする仕事も頼まれた。小さな字で上下左右あちこちにいくつも引き出された原稿で、慣れないと文章がつながらないが、たびたびの仕事だった私には、なんとか読みこなせた。先生の文章を読みながら一文字一文字リライトする仕事は、色川流叙述を学ぶ絶好の機会となった気がする。文章表現はもとより、文の切れ目や段落、タイトルのつけ方なども秘かに学ばせてもらった。それが身についたかどうかは別だが。

先生に感謝していることがもうひとつある。大学院には進学せずに就職した私の学歴を心配してくれ、母校の東京経済大学で非常勤講師をやってみないかと推薦していただいたことだ。躊躇する私を後押ししてくれ、大きなテーマの方がいいと、「日本地域文化論」というコマをやることになった。講義一切を任せてくれ、初体験の私は緊張の連続だったが、大学での教育歴を履歴に残せた。この経験が、地方公務員から国立歴史民俗博物館研究職、専修大学文学部教員という私の転職につながったと思う。私から依頼したわけでは決してなかったが、有難いことに頭の隅においてくれていたのだろう。

大学への転職時にもらった忠告は守れなかったことが多い。ただ、新井ゼミでは、卒論を控えた四年生限定の報告会を我が家で行なった。指導教授の自宅に招かれての会話や食事に刺激と充実感を得た私の体験から実践したことだった。また卒業生に「人間到る処、青山有り」(僧月性)と自筆した色紙を贈ったが、実はこの言葉は、私が色川ゼミの卒業時に、先生からいただいた言葉であった。骨を埋める覚悟で最善を尽くせと理解したが、さすがに存命中は恥ずかしくて言えなかった。

著作100冊が目標と聞いたが、それに近い数になっているはずだ。その厖大な著作からみえる像は、「歴史学者」の枠ではとても収まりきれない。「日本を相対化したい」と「とりつかれたような衝撃に駆られて」世界を股にかけての放浪と踏査の旅は、「海外調査巡覧旅行一覧」ができるほどで、『ユーラシア大陸思索行』(平凡社、73年)、『シルクロード悠遊』(筑摩書房、86年)、『シルクロード遺跡と現代』(小学館、98年)、『フーテン老人世界遊び歩記』(岩波書店、98年)などの紀行記録となった。チベット学術登山を含めた山行は、アルピニスト兼アドベンチャラーである。著書の口絵は自ら撮影のカラー写真で、素晴らしい。セミプロ級のカメラマンの顔ものぞく。国内も精力的に飛び歩き、水俣・沖縄・秩父・成田・東北へそそぐ、厳しくもやさしい眼差しは、地域の人々をどれだけ勇気づけたかしれない。

また、米寿をこえて刊行した日本経済評論社の歴史・人物・時評の論集三部作『近代の光と闇』(13年)、『めぐりあったひとびと』(同年)、『新世紀なれど光は見えず』(14年)と対談集『あの人ともういちど』(16年)は、〝人間色川〟が直接語りかける書であり、人物論集には美空ひばり、井上ひさし、平山郁夫などが登場し、交遊の広さに驚愕する。こうした貴重な体験と自分史を惜しげもなく開示してくれたが、あまりにも巨大すぎて、器の小さい私にはとても包みきれない。壮大な「色川大吉論」の登場を待つことにしたい。

私的な追憶となってしまったことをお詫びして筆をおきたい。

[あらい かつひろ/元専修大学教授]