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  • PR誌『評論』222号:「生きること」を歴史から問う⑧ 過疎山村はいかに経済成長に相対したか

「生きること」を歴史から問う⑧ 過疎山村はいかに経済成長に相対したか

高岡 裕之

私の研究は、もともと昭和戦時期を中心としていたが、ここ十数年は戦後史、それも高度経済成長期以降の仕事が中心となっている。その一つの要因は、自治体史などで戦後史部分の執筆を割り振られるようになったことにある。昨今の自治体史では、高度経済成長期で叙述を打ち切ることは許されず、たとえば二〇一五年刊行の『伊賀市史』第三巻(通史編近現代)の場合、叙述の範囲は同市が成立した二〇〇五年まで及ぶこととなった。いわば業務上の必要による研究ではあったが、こうした作業に従事する中で痛感したのは、従来の日本現代史をめぐる議論と地域史、とりわけ農山村地域史との距離であった。
たとえば、高度経済成長期における新たな支配秩序の成立を論じた渡辺治氏の「企業社会」論は、長らく日本現代史研究をリードしてきた枠組みであるが、企業=資本のヘゲモニーを強調するこの議論では、当然のことながら農山村地域は「企業社会」の周辺という消極的位置づけがなされるにとどまる。これに対し、比較福祉国家論的文脈から提起されている一連の「日本型福祉国家」論では、「福祉」政策に対する「雇用」政策の優越、とくにポスト高度経済成長期に「雇用」政策としての公共事業が「福祉」政策に代替したことが指摘される。この後者の論点を農村との関連でより具体的に論じたのが井手英策氏の「土建国家」論であり、そこでは「公共投資は農村における賃金獲得のための、あるいは、専業から兼業への移行を進めることで、衰退の兆候が見え始めていた農業を維持するための、重要な経済的資源だった」とされる(『日本財政 転換の指針』岩波新書、二〇一三年)。ポスト高度経済成長期に厖大な農村公共事業が展開されたことが財政的に注目すべきことであったことは間違いないが、当該期の農山村地域の実態からすれば、公共事業の役割はより限定的であったと考えられる。
農業政策論・農業問題論の領域に目を向けても、かつての議論には違和感を感じるところが多い。その典型が兼業農家問題をめぐる議論である。周知のように、高度経済成長期には農山村から大量の労働力が流出する一方、専業農家は減少の一途をたどり、やがて農家の「総兼業化」(それも第二種兼業化)と呼ばれる事態が生じた。このような事態に対し、「自立経営農家」の確立を理念とする「基本法農政」は、第二種兼業農家の離農による上層農家の経営規模拡大を望ましいものとしたが、「基本法農政」を批判する論者の多くもまた、専業農家こそがあるべき農家の姿であるという理念を共有していたように思われる。そこには、論者の多くが農業問題研究者であることから生じるバイアスに加え、兼業化の進展を独占資本による農村支配の進展とみる「国家独占資本主義」論の影響があったといってよい。しかし地域の側からみた場合、これらの議論は顚倒しているといわざるを得ないように思われる。なぜなら、農山村地域の住民にとって、農業はその地で生きるための手段の一つであり、問題は生きてゆくための条件をいかにして確保するかにあったはずだからである。
右のような問題は、高度経済成長期に「過疎」に直面した山村地域(ここでは林業山村ではなく農業山村を念頭に置いている)において、とりわけ鮮明に現れている。もともと平地が乏しく農業経営に不利な山村地域は、高度経済成長期に「過疎」化したところが少なくなく、住民の地域への「定住」が大きな課題となった。そしてその第一の条件として望まれたのが就業=兼業機会の確保であった。だが「過疎」山村における「定住」の条件は就業問題だけではなく、さまざまな「福祉」的施策も必要不可欠であった。「過疎」山村では、高度経済成長による巨大な社会変動の中で、地域で「生きること」の条件が鋭く問われていたのであり、そうした経験を歴史化することは、今日の地域社会の問題を考える上でも重要な作業と思われる。
以上のようなことを私は、現在「中山間農業改革特区」に指定されている兵庫県養父市の関宮地域(旧養父郡関宮町)を事例として具体的に検討してみた。その詳細は、二〇二一年刊行予定の長谷川貴彦・大門正克編著『「生きること」の問い方──歴史の現場から(仮)』所収の拙稿「山間の地で生きること――兵庫県関宮町を事例として」をご覧いただきたい。
[たかおか ひろゆき/関西学院大学教授]