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特集●「消費」研究の展望 歴史・現在・未来を見通す叙述へ

原山 浩介

早いもので、拙著『消費者の戦後史』の刊行から、一〇年が経過した。
本来であれば、近年の「消費」を念頭に置いた研究の整理をここで展開するべきなのかもしれないが、紙幅が限られている上、私自身、その準備がまだ十分にできていない。そうしたなかで、ひとまずは、印象に残った最近の社会学分野の論文、林凌「人々が「消費者」を名乗るとき──近代日本における消費組合運動の所在」(年報社会学論集三二号、二〇一九)の問題設定を紹介しておきたい。
同論文は、近代の消費組合運動において「消費者」がどのように社会変革の担い手として浮かび上がったのかを論じているのだが、その序論において、次のように記されている。「本概念(消費者)は現代社会を語るために重要な分析概念として頻繁に用いられている一方で、特定の社会環境下において名乗りうる、当事者概念としても運用されている」。興味深いのは、概念ないし用語としての多面性に正面から向き合いながら、「消費者」の概念史を扱おうとする「手つき」である。
言うまでもないことだが、語義的には、「消費者」は、ごく一般的な消費行為の担い手を指すものであり、その限りでは名指される対象は、「ヒト」という言葉で指示されるものとあまり変わらない。しかし、実際には、歴史的射程を持って「消費」を取り上げる研究は、そのような極度にニュートラルな論述を企図しているのではなく、むしろ「消費者」を基点にしながら、時代や社会のありようを浮き彫りにすることを目指している。つまり「消費」というテーマ立ては、時代/社会のオルタナティブな描き方を獲得していく可能性の源泉であり得る。しかし同時に方法としては厄介な問題も孕んでいる。私なりに整理すると、これは、「消費」という用語の、次の二つの意味での同時代性と深く関わっている。
ひとつは、「消費」を冠した用語は、私たちが現在の視点から定義できる部分もあるが、その一方で、それぞれの時代の社会状況、行政、社会運動など多様なコンテクストにおいて、その言葉がどのような意味を持つものとして扱われ、機能していたのかを見定める作業が不可欠になる点である。換言すれば、「消費……」という用語を扱うことの根底に、思想史的な作業が伴うということでもあり、だからこそ、社会の把握としてダイナミズムが生まれるといえる。この点は、「消費……」という用語とともに未来のあり得べき社会像の予測や希望を混在させた議論が存在してきたことによって、一層複雑なものとなっている。
二つ目は、二一世紀に入ってから、それまで「消費者問題」として捉えられてきた事柄が、良くも悪くも技術的な専門知のなかに絡め取られ、あるいは個別化されていくことで、そもそも「消費社会」「消費者問題」「消費者運動」といったフレームで様々な事象をつかみにくくなったことである。このことは、20世紀的な「消費」をめぐる様々な社会認識との同時代感覚(それは私自身も含め、叙述において少なからず依存してきたところでもある)の喪失、もしくは共有しにくさにつながっている。
つまり、「消費」をめぐる研究は、今や自明ではなくなった、「消費……」をめぐる観念の、かつての同時代性をすくい取りつつ、そのダイナミズムを正しく叙述の糧とし、そしてそのことによって資本主義/民主主義がどのような変化を遂げて今の私たちを規定しているのかを浮き彫りにするという、可能性と厄介さを併せ持つことになる。そこでは、それぞれの時代性やコンテクストを離れた「消費……」の安易な概念操作への誘惑を振り払うことも必要になる。
こうした見通しとの関わりにおいて、私(たち)にどのような「手つき」が必要なのだろうか。その方向性について、私自身のなかでまだまとまりがついておらず、いささか課題を投げ出し気味になってしまうこと、そして冒頭で示した論文引用のまとまりの良さを少しこじらせることを厭わずにいえば、次のようになる。まずは、「分析概念」と「当事者概念」が混淆するなかで作られた社会認識の歴史を探るという作業が必要であろう。さらに言えば、同論文の末尾でも課題として触れられている戦後のマーケティングの議論/コンテクスト、さらには行政/政治・財界・社会運動といったそれぞれの議論/コンテクストが、思想史・生活史・経済史など様々な冠のつく「史」の交錯として分析され、示される必要がある。そのための議論の空間を見通すための問題の整理を、私はもうしばらく続けていきたいと考えている。
[はらやま こうすけ/日本大学法学部准教授]