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特集●「消費」研究の展望 規範としての「消費者」を問うということ

満薗 勇

原山浩介『消費者の戦後史──闇市から主婦の時代へ』(日本経済評論社、二〇一一年)の刊行から一〇年が経った。刊行当時の私は、ポスドクとして博士論文の出版に向けた改稿に取り組む一方、大門正克先生の主宰する新生活運動をめぐる共同研究のとりまとめにかかっていた。博士論文のほうは、直接には戦前期の問題を扱う内容だったこともあり、原山さんの本は、どちらかといえば新生活運動をめぐる共同研究との関係で熱心に読んだ記憶がある。一九五五年に設立された新生活運動協会は、一九六〇年代半ばから新たに生活学校運動を展開していったのだが、その位置づけに関わって、原山さんの本で取り上げられた日本消費者協会による消費者運動との比較が有効だと思われたからである(大門正克編著『新生活運動と日本の戦後──敗戦から一九七〇年代』日本経済評論社、二〇一二年)。
そこでの議論は、「消費」と「生活」の違いを一つの焦点にするものであった。新生活運動協会は、「生活」という言葉のなかに、人と人との関係性を結び直すコミュニティ形成の基盤という強い含意を込めており、「消費」は「生活」の一部にすぎず、社会のなかにあって「消費者」は一つの機能集団にすぎないという見方をとっていた。広くいえば、それは天野正子氏が注目する「生活者」論の系譜に位置づけられる(天野正子『「生活者」とはだれか──自律的市民像の系譜』中公新書、一九九六年)。高度経済成長のもとで「消費者」という受動的な立場に押し込められ、押し流されていく人びとをネガティブに捉えたうえで、「生活者」として生活の全体性をつかみ直しながら、あるべき市民としての主体性を回復していこうとする志向をもつ見方であった。
こうした戦後史の議論を共同研究のなかで重ねたことは、大衆消費社会の成立史という枠組みで歴史像をつかまえようとしてきた私の個人研究にも大きな影響を与えた。もともと大衆消費社会という捉え方は、人びとの主体性や人間性の喪失を批判的に焦点化した大衆社会論と接点をもっているが、戦後日本でみられた「消費」と「生活」のせめぎ合いは、そうした問題が歴史具体的な形をとって表れたものであるように感じられたからである。原山さんの本は、主婦連合会による「主婦の夢」という絵の紹介で始まる。消費者のみで成り立っているかのように描かれる町のその絵のなかに、消費者運動における労働の論理の捨象という問題性を読み込む原山さんの議論は、「生活」のなかにある労働の問題を、「消費」が見えにくくしてきた歴史を鋭く突いたものだった。私の個人研究においても、通俗道徳や生活改善との関わりも含めて、広く「生活」の問題として消費を位置づけていくことが重要な課題であると思うようになっていった。
博士論文を出版後、幸運にも新書を書く機会に恵まれた私が、近現代日本の小売業史を通史的に叙述するにあたって、「消費」「労働」「地域」という三つの視点を置いたのは、以上のような経緯を踏まえてのことである(拙著『商店街はいま必要なのか──「日本型流通」の近現代史』講談社現代新書、二〇一五年)。その取り組みを通じて、消費史を広く「生活」の問題として位置づけながらみていくこと、特に労働や地域との関係に留意することの有効性を自分なりに確認することができた。
その後、二〇一八年には、政治経済学・経済史学会の秋季学術大会において、「消費生活研究の新展開と経済史学──近現代日本の経験」という共通論題が組まれ、組織者の中西聡先生に誘われて、中西先生、小島庸平さんとともに報告者として登壇することとなった。準備当初の打ち合わせでは、「モノ」「ヒト」「カネ」という柱を立てたうえで、モノ=中西、ヒト=満薗、カネ=小島という分担が与えられていた。ヒトの視点から考えるという課題を与えられた私は、一九六〇年代から「生活意識」や「消費者意識」という名前を冠した意識調査が盛んに行われていることに目をつけ、意識という面から「消費者」を論ずることができないかと考えた。しかし、意識調査を正面からどう扱えばよいのかに悩むことになり、その目論見は外れた。最終的には、割賦販売の利用という具体的な課題に絞り込んだうえで、意識調査を部分的に利用するにとどまった。その結果、共通論題としても、ヒト・モノ・カネという柱を明示的に立てることはやめる方向へと進んでいった。
そうした試行錯誤のなかで私は、消費史を正面から論ずることの難しさを痛感したが、一方で「かしこい消費者」という史料用語をつかまえたことには、ささやかながら手応えを感じた。一九六〇年代の日本において、「消費者主権」「消費者は王様」といった考え方が急速に広がっていくなかで、あるべき消費者像を「かしこい消費者」という一種の規範として語る言説が繰り返しみられるようになっていたのである。先述のように、「生活者」の側からみればネガティブな含意をもつ「消費者」であったが、しかし「消費者」の側にも目を凝らせば、消費者なりの規範を立ち上げようとする動きがあり、そのかしこさの内実をどのようなものとしていくのかということをめぐっても、さまざまな立場によるいわば争奪の対象となっていたことがうかがえた。
このような視点を得てみると、「消費者の自立」、「消費者市民社会」、「エシカル消費」といった、あるべき消費者像をめぐる現状のさまざまな動きにも目が向いてくる。消費者政策においては、一九六八年の消費者保護基本法から二〇〇四年の消費者基本法へという流れのなかで、消費者を「保護の客体」から「自立の主体」へと捉え直す歴史的転換があった。他方、「消費者市民社会」という概念は、国際的な消費者運動のなかから出てきたもので、日本では二〇〇八年の『国民生活白書』が「消費者市民社会への展望」という副題のもとでまとめられ、二〇一二年の消費者教育推進法のなかで消費者市民社会の形成と発展が謳われるようになった。「エシカル消費」は「倫理的消費」とも訳されるが、一九八九年にイギリスで創刊された雑誌Ethical Consumerによって広がった概念で、日本では二〇一〇年代から用いられるようになり、消費者庁(二〇〇九年設置)もその啓蒙に乗り出している。
こうした現状を批判的に展望できるよう、ジェンダーの視点を含めて、広く「生活」の問題を視野に入れながら、あるべき消費者像をめぐる歴史を史料に即して具体的に解きほぐしていくことが、私の消費史研究における当面の課題である。
[みつぞの いさむ/北海道大学准教授]