市場経済とハイエク

森田雅憲

ハイエクといえば、一般読者は、オーストリア学派の経済学者というイメージが強いと思われるが、彼が社会科学に対してなした貢献としては、経済学よりも社会理論の領域におけるものの方がはるかに大きい。たしかに市場経済を支持する上で、彼は人後に落ちない。しかしその論法は、正統的な経済学とは全く異なっているばかりか、経済学を凌駕する壮大な社会理論に裏付けられている。
周知のように、正統的な経済学は、あらゆる経済現象を合理的経済人の行動の帰結として説明しようとする。完全な情報とその処理能力を有し、あらゆる意思決定を自らの選好にのみ基づいて瞬時に行う主体が、理論の根底におかれている。そしてそのような主体が、単なる貨幣的交換の「場」である市場で財を交換し合うことで、効率的な資源配分が人為によることなく達成されることを論証しようとしている。
しかしハイエクは、人為によらない資源配分を重視する点で正統的な経済学と軌を一にしているが、正統的な経済学の大前提、すなわち「完全な情報をもつ主体」という想定自体をハイエクは根底から批判する。ハイエクにとっては、意思決定に必要な情報をいかにして入手するかという問題こそが、市場の機能を理解する上で最も重要であった。伝統的な経済学は、それを意思決定主体にとって与件としている点で、市場の本質を決定的に捉え損ねていると批判している。
市場に参加する主体は、決して「共通知識」のようなものとして、情報を有しているのではない。ハイエクにとっては、意思決定に必要な情報の多くは、各主体の主観あるいはその主体が属する現場固有のものであり、主体間で分有されるほかないものである。このようなハイエクの考えの根底には、彼独自の知識論がある。すなわち、知識(情報もその一部である)には、文字化され他者に伝達可能なものだけではなく、M・ポランニーが「暗黙知」と呼んだもの、あるいはG・ライルが“knowing-how”と呼んだ、非言語的なものもあるとし、そうしたものについてはその本質からして主体間で共有不可能なものだという見方である。
現場固有の体験なしに獲得されえない知識があることは、われわれの日常経験からも自明である。自転車に乗るための技能、外科医が手術を首尾良く行うための技術、なにが「公正」かについての直感的判断、といった知識については、マニュアルは補助的・限定的な役割しか果たさない。どれほど詳しいマニュアルが与えられようと、現場で繰り返し行われる訓練や経験なしにはそれらの修得は不可能である。こうした類の知識の上に、言語的すなわち反省的・合理的意識による意思決定が初めて可能になるとハイエクはいう。
市場とは、このように各主体の間で分有されざるをえない知識を、価格という一元的情報に変換して活用していく巨大な装置に他ならない。様々な条件が価格という一元的情報にエンコードされたり、そこから意味ある情報がデコードされたりするときには、必ず現場固有の知識が不可欠になる。このような知識論から引き出されるものは、そうした現場固有の情報が生成され伝達される環境の重要性である。現場で修得される知識は、反復的経験から学習されるものである。それゆえに、ハイエクは安定した社会環境の重要性を強調してやまない。非人為的に形成されてきた慣習・伝統こそが、言語を超える知識や情報を後世に伝えていく基本的環境と彼は見るのである。
「100年に一度」といわれる世界経済危機の勃発で、市場経済のもろさがかくも見事に露呈されてしまった。政府による空前の規模の市場介入が、慎重な検討をへることなく緊急避難的に実施されている現状を目の当たりにして、市場経済の効率性を喧伝してきた経済学はこれまで何をしてきたのだろうかという思いにとらわれている者は決して少なくないはずだ。インターネット時代にあって、あらゆる情報が瞬時に世界を駆けめぐり、市場参加者のほとんどがその「共通知識」を基に意思決定を行う経済にあって、なぜこれだけの経済危機が生じたのか。経済学はいまいちど、市場と知識(情報)の関係を問い直す必要があるといえるだろう。ハイエクならこの問いにどのように答えるだろうか。興味の尽きぬところである。
                                    [もりた まさのり/同志社大学商学部教授]