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五十周年記念特集●学術出版の「これから」─研究と著作② 書き手を甘やかさない出版社

小野塚知二

日本経済評論社に特に注文はありません。見放してそう言っているのではなく、本心です。出版界は間口が広く、奥行きも深いことが最近ようやくわかってきましたが、丁寧に専門書を作り続けるというのは、決して容易なことではありません。創業以来半世紀近く、つねに良質の専門書・資料集を刊行してきたことは称賛に値すると思います。専門書を何千点も、しかもあれほど少ない人数で出し続けるのは、なかなかできることではありません。ほとんど超人的な出版社ですが、それは同社が、潜在的な超人を見つけ、超人に育て、大切に雇い続けてきたから可能になったことで、労務管理史の研究者としては、日本経済評論社の採用や人事労務管理の歴史を調べてみたいとすら考えています。

強いて、注文をあげるとするなら、日本経済評論社は書き手を甘やかしてこなかったかという思いはあります。書き手として30年にわたって何冊もの本を出していただいた者として自戒も含めた注文がこれです。文章とは私的な日記や備忘録を除くなら、常に、読者を意識して書かれるべきだという考えがこの注文の背景にはあります。『評論』の読者の多くは現役の書き手であり、また潜在的な書き手だと思うので、わたし自身の反省も踏まえてこの点を少し詳しく述べてみましょう。

まず、書き手が書きたいように書かせすぎています。書き手とは所詮は自己顕示欲の強い巨大な子どものような存在ですから、出版社側がおとなとして、そんな企画では、まだ出版できる水準ではないということを書き手に教え諭す門番の役割を果たすべきです。

しかも、良い本とは、内容や装丁が良いだけでなく、一人でも多くの読者の手に届かなければ、本当に良い本とはいえません。読者が自ら手に取って購ってくれるような本にするために、素朴で独善的な書き手の持ち込んだ企画に注文を付けて、読まれる本に高めるということは、読者の何たるかを知っている出版社にしかできません。

第二に、上の点に関わりますが、本の中身は、読者の知りたいことや読みたいことでなければなりませんし、本の装丁は読者が読んでみたくなるような誘因の役割を果たさなければなりません。ところが、書き手、ことに経済学や歴史学の書き手は、いわゆる「実証水準を上げる」という、必ずしも読者の知りたいことや読みたいことには直結しない方向を目指して、研究を進め、原稿を書く傾向が強くあります。

修士論文・博士論文の審査や学会誌の査読も、この「実証水準」を要点としてなされますが、それはその専門分野の研究方法を進展させることに寄与したことは意味しても、読者がそうした方法を究めた本を読みたいということは意味しません。研究方法とはあくまで手段であり、お道具にすぎません。読者にとって大切なのは、本が書かれるに当たってどのような手段や道具が用いられたのかということよりは、その道具を用いて実際にどのような料理ができたのか(経済や歴史についてどのような物語が書かれたのか)ということです。書き手が何を読者に伝えたいのかに読者の関心はあるのであって、お道具の品定めは料理人(書き手)の仲間内での話題ではありえますが、読者の主たる関心事ではありません。

栗原哲也前社長が「お前たち[=日本経済評論社の書き手]はどうせ贈与文化だからな」と喝破したように、学術専門書出版の現状は、書き手が同業者たちに献本し、彼らが主要な読者であり、次は読者の誰かが書き、やはり同業者に贈呈して読んでもらうといった、古き良き互酬性の世界に留まっています。そこでは、同業者たちが「実証性」というお道具を磨くことをまず何よりも心掛けている以上、同業者たちの評価(peer review)も実証性を重視してなされます。学問である以上、確かな証拠に基づき論理的に叙述するのはいうまでもなく必須の要件ですが、それはあくまでも方法・手段・道具の性能を競っているにすぎず、学問の必要条件を満たしているにすぎません。

本の良し悪しは最終的には読まれることによって決まります。「書かれなかったことは無かったことじゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい」と言い放った老博士(中島敦『文字禍』)に習っていうなら、「読まれなかった歴史は書かれなかったのと同じ」ということになります。歴史研究者が確かに種を蒔いた(=歴史を書いた)としても、一粒も芽を吹かなければ(=誰にも読まれなければ)、それはそもそも蒔かれなかった(=書かれなかった)のと同じでしょう。ここで、いま読まれなくても百年後に発見されて読まれる(=遠い将来に芽吹く)歴史研究だってあるとの反論はありうるのですが、根本的な問題は、いまの歴史研究者は誰に読まれることを期待して、歴史を書いているのかということです。歴史とは、同業者数百人と全国のおもに大学図書館百ほどを除けば、いまの読者にはほとんど届かない「幻の名著」を書き続けるという空しいわざでよいはずはありません。

歴史の読者がいないわけではないのです。書店の歴史書の棚の前に立ってみれば、『評論』の読者が思いも寄らないような別種の「歴史」が驚くべき密度と熱量をともなって商業的に生産され、流通していることがわかります。そうした「歴史」が、数千数万という単位の読者に受け留められているのはなぜかという根拠を知ることなしに、実証性というお道具だけを磨いた歴史をひたすら書き続けていてよいのかということを問いたいのです。この点は、拙稿「読者に届かない歴史──実証主義史学の陥穽と歴史の哲学的基礎」恒木健太郎・左近幸村編『歴史学の縁取り方──フレームワークの史学史』(東京大学出版会、2020年)に書きましたので、ご参照ください。
第三に書き手は、おのれの本をより多くの読者に読んでもらうために、すべからく撒き餌を怠ってはならないと考えます。本を出したなら、最初にたくさん撒き餌(献本)すると、魚(読者)が集まってきて、話題になって、たくさん釣れる(読んでもらえる)のです。わたしはこれを「撒き餌効果」と呼んでいます。書き手の個人的な撒き餌くらいでは満たされないほどに、飢えた魚は潜在的にたくさんいるのです。

しかし、その本が世に出たことが知られなければ読者には届きません。『評論』の読者が書く本のほとんどは黙っていたら、潜在的な読者に知られることなく終わるから、撒き餌が不可欠なのです。磯で大物を釣ろうとすると高価な撒き餌をたくさん撒きますが、 釣れない(潮回りが悪いのか、魚の食い気がない)ときは全然効き目がありません。本の撒き餌は磯釣りよりもはるかに確実な効果が期待できます。

どれほど撒けるかはむろん書き手の懐具合にもよりますが、その多寡に応じて、「最低献本数」を定めてもよいのではないかと思うほど、献本は書き手が読者におのれの本を届けるうえで、最後になしうることだと考えています。わたしが口下手で遅筆にもかかわらず、副業の機会はなるべく断らず引き受けているのは、できるだけたくさん撒き餌をするためなのです。

[おのづかともじ/東京大学教授]