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五十周年記念特集●学術出版の「これから」─研究と著作① 「研究」と「書籍」のあいだで

吉田浩一

出版社で書籍の編集に携わるようになってから20年近くになる。様々なジャンルの書籍を担当してきたが、なかでも歴史研究をはじめとする「学術書」を多く編集してきた。もし、自分のやってきた仕事に何らかの意味があるとすれば、研究者の方たちが積み重ねてきた貴重な研究の成果を、書籍という形態にまとめ直して社会に届ける手助けをする──その一点につきると思う。

しかし、年々書籍の売り上げが減少してゆく中で、そのような研究と社会をつなぐ回路としての学術書の編集(学術出版)という営みをいつまで続けてゆくことができるのだろうか、という思いを抱くことも増えてきた。青木書店や校倉書房、創文社など日本の学術出版を担ってきた出版社の廃業も記憶に新しい。この『評論』の読者の間でも、学術出版をとりまく状況の困難さは共有されているのではないだろうか。

学術出版という営みを続けてゆくためには、個々の研究のジャンルや内容、読者対象を慎重に検討・判断し、適切な部数や価格を設定して、一冊ごとに確実に利益を出すことがこれまで以上に大切になっている。その研究の意義がどれだけ重要であっても、一定数以上の読者が見込めない場合は書籍化を断念しなければならないことも増えてゆくだろう(このことに関連して「学術出版と歴史学──書籍編集者の立場から」(『歴史学研究』950号、2016年)という短文を記したこともある)。

もちろん、そのような状況の中でも当初の「想定」を超えて多くの読者に届く本はある。私が最近担当した本では、「シリーズ日本の中の世界史」の一冊として刊行した吉見義明先生の『買春する帝国──日本軍「慰安婦」問題の基底』(2019年)もそのような一冊だ。前述の「定義」に即していえば、この本は、長年にわたる吉見先生の研究の成果と、日本を含む国際社会の中でいまだに決着のつかない「慰安婦」問題とをつなぐ回路の役割を担うものであり、それが好調な売り上げの原因であることは間違いないだろう。

では、「慰安婦」問題のような現実の社会状況に直結した研究でなければ、学術書の出版は難しいのだろうか。研究のテーマによって企画化のしやすさに差があることは事実であり、その意味では『買春する帝国』は「恵まれた」本なのかもしれない。しかし当初の「想定」を超える多くの読者がこの本を手に取ってくれた理由は、また別にあるように思う。

この本は近代日本における公娼制の歴史を膨大な史料や先行研究を渉猟しながら跡付けたものであり、実を言うと決して「読みやすく」はない。しかし、その詳細な叙述を読み進めてゆくと、明治初期に形成された公娼制が、近代日本が版図を広げ帝国化してゆく中で変容を重ね、最終的には日本軍の「慰安婦」制度を生み出す「基底」となるに至った歴史が鮮やかに浮かび上がってくる。

緻密な史料批判や分析を通して、一見無味乾燥な無数の「事実」の間の連関性や文脈を見いだし、大きなストーリーを紡ぎだしてゆく──この本の売れ行きは、学術書が本来有する面白さが読者に伝わった結果だろう。
同様のことをはじめて実感したのは、やはり吉見先生の『毒ガス戦と日本軍』(2004年)の編集を担当した時のことだった。

『毒ガス戦と日本軍』も、以前からこの問題に取り組まれてきた吉見先生の研究をまとめた、高度な専門性を有する本だ。ただ、当時、日本軍が戦中に中国東北部で遺棄した毒ガス兵器が現地の人びとにもたらす健康被害が国際問題になっていたこともあって、学術書としては廉価な2800円という価格で出版することが可能になり、刷を重ねることもできた。しかし、『買春する帝国』と同様、そのような話題性だけで売れたのではないと私は考えている。

『毒ガス戦と日本軍』の元になった原稿をはじめて読んだ時の衝撃や興奮は、今でもはっきりと覚えている。

この本は、それまでほとんど知られていなかった日本軍による毒ガス兵器の開発・保持、そして実戦での使用の実態を、膨大な史料を用いて描き出した初めての本格的研究として今も高く評価されている。

しかし、この本の価値は、そのことにとどまるものではない。『毒ガス戦と日本軍』が明らかにしたさまざまなこと──第一次大戦後に国際法で毒ガス兵器が禁止されたにもかかわらず旧陸軍が開発を進めたこと、欧米列強に対してはそのことを秘匿する一方で、アジアでは台湾先住民族を弾圧・虐殺した1930年の霧社事件を皮切りに、その後の日中戦争で全面的に使用するに至ったこと、実戦においては、生産コストが高い強毒性ガスではなく、低コストの嘔吐性ガスを散布し、一時的に戦闘能力を失った中国軍兵士を銃剣で刺殺する使用法が一般的であったこと──それらを通して描き出されていたのは、日本軍にとどまらない近代日本そのものの本質(ヨーロッパとアジアに対するダブルスタンダード、根本的な部分における科学技術への不信、人道の軽視……)だった。

堅実な実証研究であっても(いや、であるからこそ)それを突き詰めてゆけば、大きなストーリーや見取り図を描き出すことができる。私がまがりなりにも編集の仕事を続けられているのは、この時の衝撃や興奮が忘れられないからかもしれない。

前述したように、研究のテーマによって、書籍化の可否や、部数・価格が決まることは否めない。勝負の行方はスタートラインに立つ前に半ば決まっているのかもしれない、と思うことすらある。

だが、研究と社会をつなぐ学術出版という営みはこれからも必要とされているはずだ。一冊一冊の書籍で確実に利益を出すことの大切さは言うまでもない。その上でいま編集者に求められているのは、想定を超えるより多くの読者に書籍を届ける可能性を追求し、その研究の射程にふさわしい構成や、叙述のスタイルを研究者と共に考えることではないだろうか。

[よしだこういち/岩波書店編集部]