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  • PR誌『評論』219号:人とモノを通して日米のつながりを探る

人とモノを通して日米のつながりを探る

櫻井良樹

編著者の私は、これまで明治末から大正期にかけての政治外交史的研究を行ってきた。それがなぜ幕末? どうして茶業? という声が聞こえてきそうである。

発端は勤務先の麗澤大学が進める地域貢献事業への協力という「業務命令」であった。これは、茨城県南西部で栽培されている「さしま茶のブランド価値向上」を、この茶が「江戸時代末期に初めて欧米輸出に成功した日本茶」とされることの検証を通じてめざすものであった。輸出にかかわったのは、地元の豪農中山元成であり、売り込み先は横浜の「アメ一」(アメリカ一番館)ことウォルシュ商会であった。1859年のできごとである。

「初」を証明する作業は困難がともなう。しかし引き受けてしまったからには、それを否定するわけにもいかない。そうすると、「初」にどういう意味づけをするかが問題になるのだが、確たる方針があったわけではなかった。結果的には、報告書には強調して、本書においては控えめに記したように、日米修好通商条約締結直後の横浜からアメリカ東海岸への輸出という時期と場所を限定した上で、売り込みから輸出ルート、そして販売までの経緯が具体的に判明する本格的な事例としては、たしかに最初のものということで落ち着かせることとした。

本来なら、日本茶輸出に関する研究は、経済史・経営史(流通史)であり、その研究方法には、しかるべき方法があろう。しかし自分には、帳簿の数字を使っての分析などはどだい無理である。そこで必然的に、人やモノの動きに注目することになった。そして取り組んでみると、知られていない史料が次々と出現してきた。そしてそれを丹念に見ることによって、初めての例を実証していく以上のこと、開港直後の商社の活動や関わった人々、交通・通信状況、茶貿易の姿、そして日本茶の評判などの具体的なことがわかってきた。量や価格という数字とは少し違った貿易の姿である。タイトルに日米交流という語を含ませたのは、そういう意図があったからである。
中山元成の茶業・履歴関係史料(東京大学の近代日本法政史料センター「中山寛六郎関係文書」に含まれる、ただし目録は別)を利用することにより、日本側の売り込みの様子はわかったが、今回はその後の状況を示せたことが画期的であったと自負している。これが可能になったのは、海外の関係史料やその所在へのアクセスが、格段によくなっていたことによる。

ウォルシュ商会横浜支店を担っていたG・R・ホールを追跡したところ、アメリカではプラント・ハンターとして研究があり、その書簡がハーヴァード大学医学部や遺族のもとに残されていた。さらに決め手となったのが、同大学ビジネス・スクールのベイカー・ライブラリーに、ウォルシュ商会が日本から上海を経てニューヨークへ輸出した際の帳簿や、ボストンでの販売記録が残っていたことであった。これは一九世紀の「中国貿易原史料コレクション、中国におけるアメリカ商社記録」中の「フォーブス家経営記録」に含まれていたものであり、関連史料は同コレクションの「ハード商会文書」にも散見された。また近くのマサチューセッツ歴史協会には、ホールの妻ヘレンの実家・ビール家文書や、同時期に東アジアで活動した商人たちの個人文書が多く所蔵されていた。本研究は、それらをピンポイント的に利用したが、素人目に見ても、経済史研究が可能な材料の宝庫である。

これらに加えてアメリカでは、150年以上前に全国で発行されていた新聞が、記事の内容まで全文検索して閲覧することが可能になっており、貿易船の名前や「日本(の)茶」などのキーワードを組み合わせて検索することにより、輸入された茶の販売面までも知ることができた。Chronicling America: Historic American Newspapers(Library of Congress https://chroniclingamerica.loc.gov/)やAmerica’s Historical Newspapers(https://www.readex.com/content/americas-historical-newspapers)は、たいへん有益で便利なサイトである。

以上のようなものを利用することによって、幕末開港直後の日米間の人とモノとのつながりを、史料を通じて明らかにする作業を、謎解きのような感覚で予想外に楽しみながら進めることができた。

[さくらい りょうじゅ/麗澤大学教授]