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五十周年記念特集●歴史学研究の「これから」─体験と運動④ 歴史学の運動性の次元

戸邉秀明

ここ数年、亡くなられた歴史家の著作目録を編む機会が続いた。荒井信一、中村政則、牧原憲夫。専門も叙述の手法も異なる三人の目録作りを通じて考えたことを糸口に、史学史的課題のいくつかを浮き彫りにしてみたい。

まず目録の形式。現在の出版事情では、歴史家の著作集を作ることはますます難しくなっている。ならば目録だけで、歴史家の思想形成の過程をうかがえるような記述表現、具体的には、発表媒体や文章の形式に関する情報を注記しながら完全編年体でまとめていくことが望ましい。

主要な論文が書かれる以前、つまりは歴史家となる途上で書かれたものを、発表媒体や、それが書かれる契機となった諸関係を含めて理解できるようにすること。それにより、のちの著作の読み方も変わる、ないしはいっそう深まるからだ。

荒井で言えば、1950年代半ばの『世界史講座』の編集や歴史教育研究所への参加が、広い視野で描かれるのちの荒井の国際関係史へとつながる訓練の場となった(『東京経済大学人文自然科学論集』第143号、2018年掲載の目録参照)。

中村については、1960年代前半のわだつみ会への積極的な参加が、同会の機関誌から読み取れる(『中村政則の歴史学』日本経済評論社、2018年所収の目録参照)。中村が『日本の歴史29 労働者と農民』(小学館、1976年)で実現した民衆史叙述の淵源のひとつに、そこでの経験があったと思われる。

牧原の場合、『牧原憲夫著作選集』上下(有志舎、2019年)を編集する過程で、1970年代初頭の大学院生時代の同人雑誌への寄稿まで遡って問題関心の推移を確認できた。青年牧原が当時の戦後歴史学に懐いていた批判を抜きにして、後年の国民国家論に賭けた彼独自の志向はない。このつながりが見えないと、牧原の歴史叙述をポストモダンの受け売りとする見方がくり返される懸念がある。

以上の発見は、「歴史家になる」過程で、歴史家が参加した場の経験が持つ意味の大きさを教えてくれる。その「場」は、大学の研究室や学会といった制度ではない、より小さな運動である。論文や著書を単位とした学説史の連なりでは迫れない。歴史家の全体像の把握には、そうした体験の領域と著作との関係を捉える必要がある。

他方、発表媒体そのものに目をやると、重要な思考の軌跡が、出版社のPR誌や、教科書会社が発行する教員向けの紙誌などに残される場合がある。この『評論』も、好例と言える。牧原が『明治七年の大論争』(日本経済評論社、1990年)刊行時に本誌第76号に寄せた短文は、自著改題にとどまらない。この本を蝶番にして国民国家論に転轍していく当時の思考の変化と、それを可能にした思考の基底部分の一貫性とを、同時に垣間見せる。

ところがこうした資料を体系的に収蔵する図書館は、たいへん希少だ。いま細々と、そのいくつかの総目次作りをしているが、重要なのは、それら媒体が相互につながり、全体として創り出していた議論の空間を可視化させることだ。その空間が歴史研究者の狭い枠を越えた議論を可能にし、歴史学が戦後の市民社会に開かれていく重要な契機になったことを指摘しておきたい。

同時に、歴史家たちにそのような発表場所を用意した編集者や出版社の取り組みが、その時々の歴史研究の潮流を創ってきたことの重要性も、目録を追いかけると見えてくる。歴史系の専門出版社が豊富に存在し、学術的な著作を大学出版局以外でこれだけ担っている社会は、そうはないようだ。この点は、編集や出版自体が、近代以来、一種の社会運動としての性格を備えていた歴史的前提を抜きには考えられない。こうした社会的基盤をふまえた史学史でなければ、学問の行方を探る手がかりにはならないだろう。

ここまで書いたことに特段新味はない。文学研究、特に間テクスト性をふまえた言説空間の分析では当然の作業だろう(草稿研究など、さらに学ぶべき他の論点を今回は略す)。しかし戦後の歴史学については、これらはほとんど手つかずだ。しかも、体験を語れる人は年々少なくなり、歴史学の運動性を支えてきた出版社の休廃業も続いている。

歴史学の〈これから〉を大いに語るはずの特集に、歴史学の〈これまで〉について書いた。それは、戦後の歴史学を生きた人々の精確な理解なくして、私たちの〈これから〉は築けないのではないか、との危惧に発している。「成果」が何よりも求められる現代に、これは迂遠な望みだろうか。

[とべ ひであき/東京経済大学教授]