• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』219号:五十周年記念特集●歴史学研究の「これから」─体験と運動② 「戦後史再考」という課題

五十周年記念特集●歴史学研究の「これから」─体験と運動② 「戦後史再考」という課題

加藤千香子

拙著『近代日本の国民統合とジェンダー』(2014年)を出版してから6年が経った。同書の終章で私は次のように書いた。「戦後において国民国家としての体制は、敗戦以前よりもさらに均質でナショナルな一体性をもち強度を増したとみることもできよう。日本の戦後史において、このように再興されていく国民国家のもとでの新たな国民統合が引き起こす問題は大変重要な論点だと考えるが、それについてはこれからの課題としたい」(208頁)。

それとほぼ同時期に、西川長夫ほか編『戦後史再考』(平凡社、2014年)の出版にもかかわったが、同書のコラム「私にとっての戦後史」で、私は「戦後」を「みんなの時代」と表現し、次のように説明した。「行動や価値観の指標とされたのは「みんな」、それにあわせるのに必死だった。民主主義的色づけのなされた全体主義社会」。戦後の国民統合を、その時代に育った私の言葉にしたのが「みんなの時代」である。現在、こうした戦後の国民統合=「みんなの時代」の問い直しという戦後史再考の課題と格闘中であるが、その必要性をさらに痛感するようになっている。「みんな」の同調圧力や排除の論理が、加速度的に強まっていると感じられるためである。

ただし、自分が囚われてきた時代を批判的に捉え直すということは容易ではない。徹底して対象化するには、視座そのものの転換が必要となる。そこで今、私が進めようとしているのは、「みんな」が外部に置いた在日朝鮮人と日本社会との関わりを軸に、戦後史を捉え直すことである。高度成長真っただ中で育った子ども時代をふり返ると、在日朝鮮人と親密になった記憶はなく、嘲りのこもった「チョーセン!」という言葉が日常にあったことがよみがえる。それはまさに戦後日本社会と在日朝鮮人の関係を象徴していると思う。今日問題となっているヘイトは、植民地帝国時に生まれながら戦後日本社会の底流にも存在し続けた蔑視・嫌悪の感情に由来する、きわめて根が深いものなのではないだろうか。

戦後歴史学においても、「みんな」の歴史が課題となるなかで、植民地主義に目をつむる傾向があったのではないか。在日朝鮮人史はあるが、「在日」をふまえた戦後史叙述は未だに不十分である。

私が、在日朝鮮人と日本社会を軸にした戦後史再考を行うにあたって着眼する時期は2つある。1つは、在日朝鮮人が「見えない人々」となる過程である。戦後復興の達成、高度成長の開始という1950年代後半から60年代は、日本社会に単一民族主義の観念が浸透するとともに、在日朝鮮人を視野から外すことで旧植民地を不可視化し、植民地支配を過去のものとしていった時代と読み替えられる。なかでも、1959年に始まる在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業の推進、1965年の日韓基本条約の締結は、こうした視点からの見直しが必要だろう。

もう1つは、「見えない人々」が姿を現わすと同時に、日本社会でそれに呼応する動きが起こる1970年前後である。当時京都ベ平連代表をつとめていた飯沼二郎は、在日朝鮮人を「見えない人々」(飯沼『見えない人々──在日朝鮮人』日本基督教団出版局、1973年)と表現したが、この言葉は示唆を与えてくれる。1958年の李珍宇、68年の金嬉老による衝撃的な暴力事件も契機となったが、在日朝鮮人への就職差別を問うた日立闘争が展開された70年前後は、その意味で大きな画期といえる。この問題については、先に拙稿「戦後日本における公共性とその転回──1970年代を起点とする川崎・在日朝鮮人の問いを中心に」高島修一・名武なつ紀編『都市の公共と非公共──20世紀の日本と東アジア』日本経済評論社、2013年)で、70年前後を「公共」の転換の契機とした。今あらためて、在日朝鮮人と日本人が各々の「主体」をかけて発した時代の言葉を読み直すと、簡単には終わらない解決、持ち越されている課題とともに、その背景や問題をさらに追求する必要を感じている。

「戦後」を支えた法制度が次々と改変を遂げつつある現在は、ポスト「戦後」の時代と呼ぶ方がよいかもしれない。その中で、古き良き時代としての「戦後」の遺産を守っていく道もあるだろう。ただし、私は、自分自身もその一端を担ってきた戦後国民国家の一体性がはらむ抑圧や排除の構造をどう乗り越えていくのか、考えて続けていきたい。

[かとう ちかこ/横浜国立大学教授]