• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』218号:五十周年記念特集●災害とコミュニティの「これから」─孤立と協同①      蔓延する日常的災害とコロナ禍

五十周年記念特集●災害とコミュニティの「これから」─孤立と協同①      蔓延する日常的災害とコロナ禍

塩崎 賢明

日本が災害大国であることは今では多くの国民の共通認識となっている。特に1995年の阪神・淡路大震災以降、数多くの地震が発生し千年に一度の歴史的大災害となった東日本大震災を迎えるに至って、その認識は一気に広まった。その後も地震が相次ぐだけでなく、ここ数年は台風や梅雨前線にともなう豪雨災害が全国各地で発生し、南海トラフや首都直下の巨大地震のおそれに加えて、全国どこでもいつでも災害が襲うという恐怖が広がっている。

自然現象としての災害そのものを発生させないことはできないので、被害をなくす、もしくは最小限におさえることが重要であり、近年は減災という言葉が使われる。では被害はどのようにして抑えるのか。それには事前の予防(防災)、発災時の緊急対応が重要であることはいうまでもないが、じつは災害が収まってからの復旧・復興の過程でも膨大な被害が発生する。このことを明瞭に示すのが関連死(間接死)である。筆者は阪神・淡路大震災後、今日に至るまで長年にわたって孤独死が一向になくならないことに強くひきつけられた。阪神・淡路大震災の孤独死は2019年末までに1404人にのぼる。これとは別に公的に確認された関連死も932人存在する。最近の災害では関連死が直接死を上回る事例もしばしばであり、過去20年間に全国の関連死総数は5000人に達する。関連死や孤独死の原因は災害そのものではなく、災害後の対応策にある。そこで復旧・復興施策の不備・失敗が原因となって生じる被害を「復興災害」と呼ぶ。復興災害は関連死だけでない。統計的な数字はないが、避難や復興の過程で十分な医療が受けられず、病気が増悪し、死に至らないまでも寝たきりになるといった関連疾病は膨大にあるだろう。阪神・淡路大震災の被災地でいまも被災者が苦しんでいる問題として、借り上げ復興住宅からの強制的退去、25年にも及んだ巨大再開発事業の地元商業者への打撃、震災障碍者の長期間放置などがある。孤独死の継続的な発生は住宅復興が従前のコミュニティへの配慮を欠いておこなわれた結果とみることができる。こうした復興災害は阪神・淡路大震災以降も絶えることがなく、東日本大震災の原発被災地では人的被害にくわえて故郷の喪失といった取り返しのつかない事態がいまも続いており、この被害をいかに回復できるか、かつてない難問が突き付けられている。

東日本大震災の後も、それに比べれば相対的に小さい災害が毎年起こっている。破局的大地震・津波などとはちがい全国各地どこでもいつでも襲う豪雨災害の特徴は、死者こそ多くないが住宅被害が蔓延することである。それも、全壊に至らず一部損壊程度の被害が多い。住宅再建を支援する制度としては被災者生活再建支援法があり、最大300万円の支援金がでるが、半壊以下の被害は対象とならない。屋根や壁の一部が破損した程度では半壊にはならない。これまで一部損壊に対する支援はほとんどなく、国は台風十五号災害を見るに及んでようやく30万円を限度に地方自治体に資金を供給する道を開いた。しかし、こうした一部損壊の被害でも雨漏りがする、柱や壁が水を吸って次第に腐ってくる、カビが生えるなど実際に住むという点では極めて深刻であり、きちんとした補修をすれば、数百万円以上の費用が掛かってくる。大阪北部地震、北海道胆振地震、台風15号、19号といった災害では圧倒的に一部損壊が多く、被害から2年たっても壊れた家を直せない状態が続いている。資金がないのが主たる理由と思われるが、工事をしようにも業者が来ない。また、高齢のため医療費や介護の費用が掛かる、余命が長くない中でいまさら大金をはたいて補修することに踏み切れない、など今後のことを考え壊れた家のまま住み続けるといった実態がありそうだ。つまり、このような災害の被害は被災者側の主体的な条件と複雑に絡みあっており回復が容易でない。高齢化がさらに進み、老朽化した住宅の一部が損壊したものの補修できないまま暮らさざるを得ない状況が広がっている。

2020年初頭から大きな問題となっている新型コロナウイルスのパンデミックによって、自然災害への対応を見直さざるを得なくなっている。新型コロナウイルスの蔓延自体も自然現象であるから災害と言ってもよく、これと豪雨や地震・津波などが重なれば複合災害となる。コロナ禍が短期間に終息する見通しがない中で、近年の災害発生状況をみれば、複合災害の危険性は小さいとは言えず、どの程度の規模かはともかく、全国どこででも起こりうると想定しておくべきである。コロナ複合災害でまず直面するのが避難問題である。これまで日本の避難所は、学校の体育館などに開設されることが多く、そこでの生活は密集した中での雑魚寝、冷たい食事、清潔とは言えない不便なトイレなど、極めて劣悪である。それ自体、国際的な水準から大きくかけ離れたものであるが、実に一世紀もその状態が改善されないままにきたのである。ようやく最近になって国はその状態が良くないことを認め改善の方向を示してはいるが、現場はほとんど旧態依然である。そこにコロナ禍である。避難所の雑魚寝はまさに3密の極みであり、従来方式で避難すれば集団感染を引き起こすことは火を見るより明らかである。

こうした事態に対して国は避難所の対応について「通知」や「連絡」などの文書を地方自治体に発出し、さまざまな対応が可能なように一定の財政措置も準備している。しかし、それで安心できるわけではない。これまでも内閣府などでは避難所の運営についてそれなりの認識を持ち文書も出しているが、現場での対応は必ずしも改善されてこなかった。一つには被災する自治体の側が同水準の認識に立てないまま、経験主義や責任回避主義が幅を利かし活用できる制度も生かされないという面がある。しかし、国も文書連絡をすれば後は自治体の責任とするのではなく、現場での改善に最後まで責任を持つといった姿勢が必要である。3密をさけるためにソーシャルディスタンシングが必要で被災者の間隔を2メートル以上あけるようにといってもそれが実際にどこまで実現できるのか。避難所以外の避難場所も考えよといっても親戚や友人宅が近くにあるとは限らない。災害時には普段やっていないことはなかなかできない。百年近くも密集した雑魚寝とおにぎりの食事を続けてきたつけを一気に変えることの困難に直面している。今からでも、段ボールベッドや快適なトイレ、温かい食事をすべての自治体が提供できるように国が先頭に立って体制を早急に構築するべきである。

[しおざき よしみつ/神戸大学名誉教授]