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  • PR誌『評論』216号:「生きること」を歴史から問う③ 生きる術としての示威行動 

「生きること」を歴史から問う③ 生きる術としての示威行動 

佐々木 啓

 敗戦直後の日本の都市部で、食糧不足が深刻化していたことはよく知られている。戦時中につくられた食糧配給制度は機能不全を来し、闇市に出回る高価だが劣悪な食品を手に入れることすら、容易なことではなかった。人びとは、法や制度を逸脱したとしても、今日食べる物を手に入れなければ生きていくことはできなかった。
 一九四六年五月一九日の食糧メーデー(飯米獲得人民大会)を頂点とする各地の「食糧闘争」は、こうした生活の窮乏化を土台にして大きく広がった民衆運動であった。軍や行政機関などの「特権階級」の隠匿物資を「人民」の名において摘発し、再分配するという“過激”な行動には多くの民衆が参加し、街頭での示威行動も熱を帯びたものとなった。飢餓のさなかにある民衆は、食糧を得るために行進に加わり、生き延びるために大声で叫んだ。
私が現在調べているのは、そうした各地の「食糧闘争」のなかでも、神奈川県川崎市の事例である。一九四六年五月七日、川崎市内の労働者たちは、一般の住民と合わせて数千人規模で川崎市役所にむかってデモ行進を行い、市役所前広場で長時間にわたる「労働者市民大会」を開催した。主催者たちは、市庁舎のバルコニーの上に、川崎市の助役、生活課長、食糧営団川崎支所長らを強制的に連れ出し、群衆と共に激しい剣幕で要求をぶつけた。そうしてコッペパンの即時配給を認めさせ、食糧配給の「人民監視」のための「食糧人民管理委員会」の設置などの成果を引き出したのである。主催者の一部は、さらに市長の公邸に乗り込んで、隠匿物資の調査を行ったりしている。
 こうした暴力行為も含んだ一連の「食糧闘争」の過程は、自治体史などで一定の紹介がなされているものの、運動の詳細な検討は行われていない。とりわけ、闘争に参加した民衆の現状認識や秩序意識はどのようなものであったのかについては、ほとんど明らかになっていないといえよう。なぜ彼/彼女らの示威行動は、ここまで激しい形態となったのか。本人たちは行動の正当性をどのように認識していたのか。これらの問いを究明し、「生きる術」として行われている示威行動がどのようなかたちで成り立っているのかを明らかにすることで、戦後初期の都市を生きた人びとの「生きること」のリアリティに迫ることができるのではないか、と私は考えた。
 もちろん、当事者の意識に迫るのは容易なことではない。ただ、川崎市の食糧闘争の場合、強要罪で二名、住居侵入罪で一名の検挙者が出ており、その裁判に関連する史料群が存在する。警察、検察の取調べと予審の過程で作成された文書には、労働組合のメンバーや、川崎市役所、食糧営団川崎地区事務所の職員、市長とその家族など、一連の闘争の過程に関わった/直面した人びとの証言が記載されている。これらの史料を紐解くことで、課題に接近することができるはずである。
 とはいえ、裁判関係の史料の扱いはなかなか厄介である。裁判は、いうなれば、警察、検察、裁判官と被告人本人、証人のやりとりのなかで、“真実”がつくりあげられていく過程であり、そこには権力の磁場が作用する。裁判史料を用いた近年の歴史研究では、一八世紀中庸のトランシルヴァニア侯国の貴族女性が、姦通裁判の過程で「愛に盲目で奔放な女」として創り上げられていく経緯に切り込んだ、秋山晋吾『姦通裁判』(星海社、二〇一八年)や、一九三〇年代の日本における朝鮮人虐殺事件の裁判の過程で、朝鮮人側の暴力が強調され、増幅していく経緯を描出した、藤野裕子「裁判記録にみる一九三二年矢作事件」(佐藤健太郎ほか編『公正から問う近代日本史』吉田書店、二〇一九年)などの成果が出されている。
 裁判の判決文が、様々な権力関係のなかで構成された一つの物語とするならば、裁判史料は、物語の構築の痕跡である。被告人をめぐる権力関係に目を凝らしながら、いかにその物語に収まりきらない断片を拾い上げていくかが、史料を読み解く上での重要なポイントとなるだろう。
 現在はこうした史料論をさらに深めつつ、「生きる術としての示威行動」の姿に迫るべく研究を進めている。その成果は、二〇二一年刊行予定の大門正克・高田実・長谷川貴彦編著『生きることの問い方(仮)』で発表する予定である。
[ささき けい/茨城大学准教授]