佛學事始

中川 辰洋

 「翻訳のアルバイトをしませんか」
 ──そう言ったのは一級下の後輩だった。半世紀ほど前の、〝四・二八沖縄反戦デー〟の政治集会後と記憶する。「駿河台のM大仏文科に通っていたいとこが卒論を完成できずに卒業延期になりました。モーパッサンという作家の仏語テキストの解題を半分ほど訳してもらえれば十分と言ってます。謝礼は一万円です」。
 わが同志が手にしていたのは、モーパッサンのBel-Amiだった。筆者は女性を踏み台に栄達を目指す〝美貌の友〟ジョルジュ・デュロアの物語を知っていたから思い切って引き受けた。しかし細かな文字が所狭しと六〇ページほど居並ぶ文章に接するのは初めてで、正直、往生した。NHKラジオ講座を始めて三年目に入った直後のことだった。
 ともあれ、仏和辞典を片手にテキストと格闘すること三〇日余、大学ノートの半分強を愛用のモンブランで藍色に塗りつぶすことができた。
 それから数日後、筆者は大学ノートを片手に同志とともに依頼主宅に赴いた。そこは喫茶店で、われわれを出迎えてくれたのは依頼主の母君だった。母君は恐縮しきりの体で、「英語だけでなく仏語もできるなんて、さすがはD大生さん、M大のわが子とは違う」と言って翻訳を労ってくれた。
 たしかにロン毛に茶色の上っ張り、そして口には両切りピースとくれば、大学生と思うのが道理。「お聞き及びではなかったのですね、ぼくは隣の甥御さんより一級上の高校生です」。
 母君の顔色をうかがって、まずい!と思ったが後の祭。謝礼を受け取り、コーヒーのお礼を言ってその場を辞してお目当ての品を買いに出かけた。一つは質流れのスリーバンドラジオ、いま一つは福永武彦編『ボードレール全集』全五巻(人文書院刊)。
 今日からラジオ講座を「ノイズと怒り」なしに聴ける、学習が捗れば、大好きなボードレールの詩を仏語で読めるようになるのもそう遠くあるまいと思うと気分は爽快だった。実際、仏語は進歩した。だから大学受験では仏語を選択した。けれども入学後は文学から社会科学に鞍替えし、のちに大学院に進学する時には経済学を専攻した。
 もちろん、ボードレールから離れることはなかった。当時H大教員だった仏文学者のA先生のゼミ生の好意で、先生にお会いする機会を得た日の会話をいまも忘れることはない。先生は口頭一番、筆者に「ボードレールはだれの訳で入門しましたか」と尋ねられた。「福永訳です」。すると先生はおっしゃられた。「福永訳はよいと思いましたか」。
 この一言に驚いたのは筆者よりもAゼミ生氏だった。曰く、「初対面の君にあんなことを先生がおっしゃるとは驚いたよ」。爾来、「詩を理解するには暗唱できるまで読むこと」が口癖の、ソルボンヌ出身の仏語の恩師の顰に倣いクラシック・ガルニエ版Les Fleurs du mal(『悪の華』)を読み、いつしか“Chants d’automne(秋の歌)”など五〇編ほどを諳んじるようになった。
 だからというのではないが、前年春発表したヨーロッパ政治状況の論稿の題辞として『悪の華』の有名な一篇 “Le reniement de Saint Pierre(聖ペテロの否認)”の最後の四行に訳をつけるのに苦労しなかった。ところが友人たちが「あれはだれの訳だ」と言うものだから、「小生のだ」と応えた。
 オリジナルはこうである。“Certes je sortirai, quant à moi, satisfait,/ d’un monde où l’action n’est pas la sœur du rêve;/ Puissé-je user du glaive et périr par le glaive! / Saint Pierre a renié Jésus…il a bien fait!”
 福永訳はこうだ。「まさに私は去る、この私は、甘んじて、/行為が夢想の妹ではないと知ったこの世から、/願わくは剣によって立ち剣によって滅びよう!/聖ペテロはイエスを否認した…彼は当然のことをなした!」
 諸賢ご高承の通り、“satisfait”は「甘んじて」よりも「満ち足りた気持ちで」、また “Puissé-je…” のくだりも、「願わくは」ではなく「能うるなら」が適切だろう。しかし、極めつけは最終行の“…il a bien fait!” である。元漁師の後世が「イエスを三度知らない」と白を切ったその時から始まることに思いを致せば「善き行人なるかな!」と訳すべきだった。
福永編『ボードレール全集』に目を落とすことはこの先ないだろうが、いまもプレイヤード版全集とともに筆者のささやかな書棚の一角を占めている。筆者の佛學事始を思い起こすよすがとして。
 [なかがわ たつひろ/青山学院大学]