神保町の窓から(抄)

▼ 京都に本社をおく弘文堂は、明治時代からつづくしぶい専門書の出版社である。その出版社に、戦後出版史に欠くことのできない2人の社員がいた。2人は 1951(昭和26)年秋、そろって弘文堂を辞めた。1人は未来社を興した西谷能雄さん、もう1人は創文社を立ち上げた久保井理津男さんだ。弘文堂を辞めた経緯は、ここでは問題ではない。営業部と編集部に在籍した2人が、何を目標とし、何を幸せと感じながら、戦後の出版史にあとかたを遺したのであろうか。2人が退職したのはその年の10月末日である。西谷さんは、旬日を経た11月10日には木下順二『夕鶴』(定価30円)ほか2点を同時に刊行している。久保井さんは少し遅れて11月15日、団藤重光『新刑事訴訟法綱要』(定価530円)ほか2点を処女出版として出発している。西谷さんは『夕鶴』などでデビューしたものだから、取次から演劇出版社を作ったと誤解されたという。西谷さんは演劇の本を作ることを目的にしたのではない。講談社も岩波もやらない出版、あるいはやれない出版を目指したのだ。その一つが『夕鶴』であったにすぎない。幼少を佐渡の寒風に晒して育った西谷さんは、反権力、反権威を心棒に、何のために、誰のために、どんな本を作るかを追求しつづけてきた。頑迷固陋と自分も他人も言った。こういう人間を好く人は少ない。だが創業時から数年のうちに出版した作品は、戦後を永く読み継がれることになる。先の『夕鶴』をはじめ、内田義彦『経済学の生誕』、野間宏『人生の探求』、花田清輝『アヴァンギャルド芸術』、小林昇『重商主義解体期の研究』、丸山真男『現代政治の思想と行動』、石母田正『古代末期政治史序説』等々である。誰の書棚にも一点はあるだろう代物である。久保井さんも団藤さんをはじめ、柳田謙十郎、高坂正顕、石井良助、唐木順三、上原専禄、桑原武夫というパレードを展開する。久保井さんは熱血というより情と信念の人にみえる。貧乏も身に沁みているらしい。編集に一度も籍をおいたことがない久保井さんが、前記のような著者を揃えることができたのは、たぶん久保井さんの誠実さによるものだろう。お2人に共通するのは、出したい本のためには貧乏を恐れていないことだ。わが身を思う。貧乏には難なく到達することができたが、出版人に不可欠な出したい本のために貧乏するという強靱な精神には、足許にも及んでいない。不甲斐ない。
▼ 実は、小社も40年に近い社歴を践んでいるのに、著者や読者の方々との距離が測りがたく、ある種の不安や焦燥が襲っていました。確たる証拠はありませんが、私どもの思いや行動が皆様に伝わっていないのではないかと思うようになりました。そこで、いままでのわが社の歩みをたどりながら、その都度、何を考えていたのか、それとも何も考えなしにいたのかをまとめてみようとしました。(本が売れないと内向的になるのか)西谷さんや久保井さんの書き物を再読したのはその手がかりをみつけたかったからです。それが先頃、冊子にまとまりました。題して『私どもはかくありき―日本経済評論社のあとかた』(A5判230 頁)です。こういうものは、周年記念に出すべきものなのでしょうが、それまで待てずにまとめてしまいました。若干、私的な思い入れもあり堂々とした「社史」にならず、社員に容認された「私史」になってしまいましたが、決して「自分史」ではありません。傷ついた人がいましたら、済まなく思います。
 それにしても、人の記憶とは何と愛おしいものなのでしょうか。当時辛いと思っていたことが、今になると何でもないことになっているのです。そしてそのころ愉快に思っていたことがとてもくやしいこととしてあるのです。ですから、タイトルにした『私ども・・』の『ども』とは誰のことかと議論にもなりました。ある局面について、感じ方が裏表ほどちがうのです。それらのことごとを、今更一致させては嘘になります。柴又の寅の言う「てめえどもは』の「ども」です。ご理解ください。なお、巻末に創業以来の全刊行物を並べてみました。それはくどくどしい能書きよりもわが社の多くを語っているでしょう。ご希望の方にはお送りいたしますので、お申しつけください。言葉通りご笑覧くださって感想など聞かせていただければ、励みになります。
▼ 「私ではこの難局は踏み越えられません。先のことは知らねっ」と福田首相のように、引っ込めればいいが、下々はいつだって引っ込みのつかない舞台に上ってしまっている。暑い夏が去り、秋風が吹いてきました。首筋が寒い。風邪など引かぬよう会社も心臓も鍛えておこう。