春の東独で大学の冬を思う

高嶋 修一

春の心をのどけからしめんと、桜のほころびかけた日本を離れ、ドイツはザクセンのとある町で小さな汽車を見ている。町の名前を冠したドイツ鉄道の駅がライプツィヒとドレスデンとの間にあるけれど実際には二キロくらい離れていて、そんなふうに幹線鉄道のルートからはずれた町や村を結ぶために建設されたのがこの軽便鉄道だったと見える。西ドイツではこの種の鉄道は早々に姿を消したが、東ドイツでは生き延びた。もはや公共交通機関としては通学のためくらいにしか使われていないけれど、ときどき蒸気機関車が走る。ザクセン州の観光資源だ。
ちいさな町ながら中央広場には立派な教会があり、ぐるりと囲んでいた城壁や大きな監視塔も一部が残っている。鉄道開通前は街道沿いにあってそれなりに栄えていたのかもしれない。道路や建物は、少なくとも中心部では綺麗に整備されている。ただ、勝手な憶測だけれども、こうなったのはみんな統一後だろう。ここには「くたびれた東独、くすんだ東独」を感じさせる物は何ひとつなく、東西どちらに属していたのかさえ、知らなければわからない。小さなホテルの若いスタッフは英語がまるでダメだったけど、それはあんまり関係ないでしょう。ドイツ語できなくてごめんね。
歩きながら分断時代のことを想像してみる。今はどの建物も壁の漆喰がきれいなパステルカラーに塗られていてスキがないけれど、以前はどうだったのだろう。いや、そもそも「昔から建っていますよ」と言わんばかりの家並も、統一後に出現したのかもしれない。書店に行けば町の歴史を示した写真集くらいあるかもしれないし、もっとやる気を出すなら図書館に行けばよいのだけど、あいにく(幸い?)イースターでみんな休業中。東独のことなんて、史料はおろか概説書ひとつ読んだことがないから何も知らないけれど、「ひどい政治体制」という文字列を頭の中に書いて読んでみた刹那、わが極東の島国を思い出して笑ってしまった。
決済済みの公文書を改竄するなんてオーウェルの『一九八四年』に出てくる「真理省」さながらだけど、前からやっていたとしても驚くには値しません。所定の用紙を毎年少しずつ机の引き出しに「寝かせて」おいて何時の文書でもでっち上げて差し替えるくらいのことは、子供でも思いつきますよ。でもねえ、バレたときに居直るのは、いかんでしょう。みんなもっと怒れよ、と思うけど、ツイッターとかで著作権を運営会社に召し上げられたり、発言や存在(アカウント)を強制的に消されたりすることに慣れた人々には、案外違和感がないのかな。あたしは嫌ですよ、そんなの。
さて、この原稿の依頼時の題目は「改憲を大学で講義できなくなるという問題について」でした。国民投票法の話です。同法一〇三条には「教育者〔中略──引用者〕は、学校の児童、生徒及び学生に対する教育上の地位にあるために特に国民投票運動を効果的に行い得る影響力又は便益を利用して、国民投票運動をすることができない。」とあるのですが、これが一応まっとうな内容である一方、問題含みであることは一目瞭然でしょう。だからこの条文に先立って第百条には「表現の自由、学問の自由及び政治活動の自由その他の日本国憲法の保障する国民の自由と権利を不当に侵害しないように留意しなければならない。」とあるのですが、どこまで信用できるのやら、というわけです。
でもこんなの、二〇〇七年に法律が公布された時からわかっていたことで、その筋の専門家たちはずっと問題視してきました。私はその筋の専門家ではないし、迂闊にも最近までこの問題について知らなかったのですが、別の用事で日本経済評論社を訪れてうっかりこのことについて口走ったばかりに、こうして原稿を書く羽目に陥ったのです。何を書こうかと迷ってはや三ケ月。やっぱ無理だよ。学生相手の基礎ゼミとかでならば「よその国の改憲手続はどうなっているか調べてごらん」などとしたり顔で言うかも知れないけど、所詮はしがない経済史教員。専門家たちも読む『評論』で、一席ぶつ勇気も知識も持ち合わせてないよ。ああ、これが〈吟〉氏なら堂々とやるんだろうなあ……例えばこんな風に。
 「教育上の地位」に由来する「影響力又は便益」とは何か、「国民投票運動」の内容とは何か、ここには何の定義もない。講義で先生が「賛成せい」とか「反対せい」とか指図するのはさすがにまずかろうが、例えば演習で学生同士が意見を戦わせて「改憲反対」が多数を占めたらどうする。それがネットに流れて、法律違反だといって教員に対するバッシングが始まらないと、だれが保証できようか。現代版の人民戦線事件や滝川事件は、すぐそこまで来ている。
あ! そうか、誰にも強制されてないのに委縮してるのは、こちらだった。「私は他の分野の専門家であって、自称知識人としてのプライドもあるので敢えて無知を晒したくありませんし、この件については意見を差し控えます。なんでもかんでもベラベラしゃべるなんてみっともない。黙っているほうが、お行儀が良いのですよ」。たしかに何にでも首を突っ込む一言居士は困りものだけど、学問の自由がそれを特権的に享受し得る者たち自身によって縛られるのだとすれば、それこそ悲喜劇というべきであろう。限定的な事柄であっても何かを徹底的に調べたという経験は世界について語るための資格たりえるというのが、私たちの間での約束事だったのではないか。
たぶん、事態は仮想〈吟〉氏が言うよりもっと悲惨な展開を辿るだろう。だいたい、今時の大学では誰が「教育者」なのかさえ曖昧になっている。法律を運用しようにも、適用すべき社会の方が溶けかかっているのだ。それに、政権批判した人物を別件で勾留して裁判も始まらないうちから行政府の長が公の場で犯罪者よばわりしたり、交戦相手でもない他国の挙動に反応して「訓練」と称し国民や企業の活動を法的根拠もなく制限したりするような国では、そもそも法律なんて空洞化していくだろう。
 「先生、雑談ばかりしていないで授業を進めてください。僕たち、ケーザイガクを勉強しに来てるんです」「うるさい、これが経済学だ」
もう帰ろう。新学期だ。イヤな流れには楽しいことを。新入生のあの希望に満ちた目に、今年も出会えるはずだ。
[たかしま しゅういち/青山学院大学教授]