歴史を学ぶ意義?

及川 英二郎

歴史を学ぶ意義とは何か。教員養成大学に勤めて17年になるが、将来歴史を教えるかもしれない学生たちに、歴史を学ぶ意義を説明すべき責任を感じながら、いまだもってこの問いに満足に答えられないでいる。現在に至る経緯を知る、教訓を未来に活かす、社会を構造的に理解する、過去と対話する、他者と出会う。どれも該当するようでいて、肝心の“急所”をはずしているように思う。
世界史の基本法則に安住できた頃には、おそらくさほど苦労することなく説明できた事柄も、ひとたび法則から離れれば、学びの動機づけを保証する「意義」は雲散霧消してしまう。歴史に“急所”などない。だとすればそのなかで、「同時代」の「歴史」という、一見矛盾した組み合わせが内包する可能性は何か。「今」という「過去」を学ぶ意義とは何だろうか。
2002年、同時代史学会が設立された。設立趣意書では「日本を主たる対象としつつも世界に向けて開かれ、専門性を尊重しつつも市民に向けて開かれ、過去を見据えつつも未来に向けて開かれ」と宣言している。2008年には会誌『同時代史研究』も創刊され、今年でちょうど10年になる。本誌は、政治史・経済史・外交史・社会史・文化史・思想史などを中心とした投稿論文を審査し掲載してきたが、社会情勢にあわせて「3・11後の同時代史」などの特集を組み、「研究動向」「同時代史の現場」「時評」「同時代史を生きる」といった枠を設けて誌面を多様化してきた。「同時代史の現場」では、博物館展示/ドキュメンタリーの意義/日本軍「慰安婦」問題/戦争記録運動/ジャーナリズムの戦後70年/貧困問題と労働問題/水俣病事件の現在など、時宜にかなった企画を心がけている。また、同時代史学会は、主に年次大会で総合的なテーマを取り上げるが、年2~3回の研究会では象徴天皇制/保守政治/自衛隊/財界/消費/社会運動/公害/沖縄/在日朝鮮人/スポーツ/ジェンダー/戦後文学/映画史/慰霊などに関わる個別テーマを扱ってきた。このほか、関西例会や院生・若手自由論題報告会、年次大会での自由論題報告会など、多彩なテーマと人材の発掘に努めている。
「歴史」というジャンルは一つの制度にすぎない。その内実や限界はそのつど再審される。「歴史」に限らず、「地理」「生物」「国語」「家庭科」「保健」「美術」。実はどれも人為的で不安定な制度である。その内実や限界はやはりそのつど再審される。むろんそれは、学習指導要領が改訂されるからではない。学習指導要領を批判する側にさえ共有され自明視される次元にこそ、再審すべき対象があり得るということである。その点、ちょうど国民国家を自明視することでエスニック・マイノリティが不可視化され、国際関係論の正規なアクターには登録されてこなかったように、「歴史」というジャンルを自明視することで不可視化され、ジャンル間の学際的な研究から脱落するテーマがある。例えば、セクシュアル・マイノリティは、社会がそれを不可視化している限りは、どのジャンルにも現れないし、逆にいえば、どのジャンルでも取り上げることのできる包括的なテーマともなり得る。それを不可視化してきたカラクリは、「歴史」単独では解き明かせない。つまり、「歴史を学ぶ意義」を問う限りは、セクシュアル・マイノリティを排除してきた歴史は見えてこない。問われるのは、社会との関係で存立してきた「歴史」「地理」「生物」「国語」「家庭科」「保健」「美術」といったジャンルの総体だからである。
「同時代」の「歴史」という矛盾した組み合わせのメリットは、「同時代」という現在進行形の視座が、「歴史を学ぶ意義」を問い質したくなる執着心をつねに裏切ってくれる点にこそあると私は思う。その“繋ぎ目”の不安定さが、「歴史」というジャンルの不安定さを思い出させてくれるのである。問われるべきは「歴史を学ぶ意義」といった古色蒼然たる問いではなく、社会をいかに再審するか。同時代を生きる私たちの立場性そのものにほかならない。「世界に向けて開かれ」、「市民に向けて開かれ」、「未来に向けて開かれ」。設立趣意書のこの理想をどこまで実現できるか。『同時代史研究』もつねに再審される途上にある。
[おいかわ えいじろう/『同時代史研究』編集委員長]