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東北で自由民権運動を研究すること  ──『東北の近代と自由民権』刊行に際して

友田 昌宏

本書刊行に至る道のりを振り返るとまさに苦難の連続であった。本書以前、私は二冊の単著を出させていただいたが、今回の編著で味わった苦労は過去二回をはるかに上回っていた。そこには、東北で近代史を研究することの困難さ、自由民権運動研究が置かれた現状が間違いなく反映されている。
本書刊行の発端は、2014年4月に発足した東北大学東北アジア研究センター上廣歴史資料学研究部門主催の共同研究「東北の自由民権運動」にある。研究のフィールドを「東北」に設定することは、私にとってごく自然なことであった。それまで、私は米沢藩や同藩出身の政治家・宮島誠一郎をテーマに研究を続けてきたが、その背後には東北から明治維新を考えたいという思いがあった。では、なぜ「明治維新」ではなく、「自由民権運動」だったのか。これはほんの偶然に過ぎない。
私は東北大学に赴任する前、町田市立自由民権資料館に嘱託として勤務していた。同館での在職期間一年半。仕事らしい仕事を残せぬままの退職であった。「一度くらい展示を担当してほしかった」、「東北大に行く前に民権資料館で一旗あげてほしかった」、学芸員の松崎稔氏と、専修大学文学部教授(当時)の新井勝紘先生のお言葉は、その後も澱のように私の胸裏に沈んでいた。「お二人を招いて自由民権のシンポジウムを開こう」、かくして企画されたのが「宮城発・自由民権運動再考」であったが、ひょんなことからこれが共同研究へと発展したのである。
しかし、偶然と必然の境界線はえてして淡い色をしている。調べていくと、東北の近代を考えるうえで自由民権運動はきわめて重要であることがわかった。そして、そこには明治維新の残影がはっきりと見られた。
東北の近代は戊辰戦争によって幕を開ける。この戦争により東北は、経済的後進地というレッテルに加えて、皇化の及ばぬ政治的後進地というそれまでをも上塗りされた。そして、奥羽越列藩同盟に最後まで前途を託した藩も、それを見限り、戦後、賞典にあずかった藩も、また士族も平民も、等しく「白河以北一山百文」の蔑称のもとに置かれたのであった。
やがて好機が訪れた。自由民権運動の勃興である。民権運動を通じて日本に立憲制を実現することは、東北にとって「第二の維新」であり、その先駆けとなることで、東北の人々は「白河以北」を越えようとしたのである。ここに各地の民権結社が「東北」の名のもとに結集する。「東北」というアイデンティティの形成に、民権運動が果たした役割はきわめて大きい。民権運動最盛期の明治10年代初頭には、東北有志会(明治11年〔1878〕)、東北連合会(明治13年)、東北七州自由党(明治14年)が、明治23年の国会開設を前に民権運動が最後の盛り上がりを見せる明治10年代後半から明治20年代初頭にかけては、東北十五州会(明治21年)が結成される。この東北十五州会には、「東北」といいつつも、新潟・富山・石川・福井等北陸諸県も加盟している。かかる民権結社団結の動きは、戊辰戦争から研究をスタートさせた私の目には、奥羽越列藩同盟の再演のように映じた。
一方で結集した各地の結社のあいだでは対立が絶えなかった。対立は県を異にする結社間だけでなく、宮城県の進取社と本立社のように、同一県内でも生じた。東北の人々は「白河以北」でもって結びつきながら、地域や立場によってそれぞれの「白河以北」を背負っていたのである。近代の「東北」が抱える複雑な様相が見て取れる。
東北に来て改めて感じたのは、近代地域史研究の極度の不振であったが、それを打開する鍵が自由民権運動にある気がした。東北の近代史を何とかせねば、そんな身の程を弁えぬ使命感が、いつしか偶然を必然たらしめた。
自由民権運動研究も近年不振に喘いでいる。その意味でこのテーマは二重の足枷を負っていた。斯様に多くの困難をかかえて発足した共同研究であったが、その後二年の歳月を経て本書が産声を上げた。もとより早産の未熟児かもしれない。だが、人は誰でも役割をもってこの世に生を享ける。書物もまた然り。本書を契機として東北に自由民権の、そして近代史の新たな潮流が生まれることを祈念してやまない。
[ともだ まさひろ/東北大学東北アジア研究センター助教]