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  • PR誌『評論』173号:弔い合戦の二冊──西谷能雄と庄幸司郎の本

弔い合戦の二冊──西谷能雄と庄幸司郎の本

松本昌次

 西谷能雄と庄幸司郎──この生まれも育ちも異なるふたりが、いまなおヤクザのように出版界のドロ沼から足の抜けないわたしにとって、忘れ難い師であり、友であることはいうまでもない。
 師である前者は、〝頑迷固陋〟を自称して憚ることなく、〝出版は志にあり〟とかずかずの名著を世に送りつつ、同時に、矛盾山積の出版界の〝御意見番〟として生涯を送った、知る人ぞ知る〝全身出版人〟である。竹内好さんによって「未来への遺産たるべきドキュメント」と高く評価された十指に余る著書をのこし、1995年4月29日、世を去った。享年81。
 友である後者は、旧「満洲」からの〝戦争難民〟として一四歳で見知らぬ日本に放り出されて以来、〝タタキ大工〟から身を立て、学者先生を〝クソインテリ〟と罵倒して憚ることなく、反戦平和・憲法擁護の立場から、建築の本業のほか出版・映画制作などに湯水のように金を投じた、これまた知る人ぞ知る〝全身市民運動家〟である。同じく竹内好さんによって「この男は見どころがある」と深く愛された。2000年2月18日、急逝、享年68。
 1952年4月、仙台の大学を出て時間講師として赴任した、都立高校夜間部のうす暗い教室で、わたしは庄さんと出会った。教師を教師とも思わぬ不敵な、それまでの苛酷な体験に裏打ちされたニヒルな面構えの、大工道具を肩からひっかついだ20歳の青年だった。わたしは当時、猖獗を極めた〝レッドパージ〟なるものに、せいぜい〝ピンク〟ぐらいだったにもかかわらず、ひっかかって、半年であっさり教師を馘になった。しかし、水と油ほどに性格の異なる庄さんとわたしの〝奇妙な友情〟は、さまざまな困難を越えて切れることなくつづいた。
 翌53年4月、野間宏さんのお蔭で、わたしは、創立1年余の未来社の編集部に、出版のシの字も知らないのに拾われた。度の強い眼鏡をかけ、がっしりした身体つきで見るからに頑固一徹といった感じの西谷さんの風貌に、はじめは果たしてこれから勤まるかどうか不安であった。しかし、これまたお互い、水と油ほどに性格は相反するというのに、以来、30年余、〝出版の志〟は切れることなくつづいた。庄さんは、未来社に関係する多くの著者の、小は本棚から大は一軒家にまでかかわり、〝タタキ大工〟から建設会社の社長になった。「未来社は土建会社か」と、冗談まじりにささやかれたりしたほど、わたしは庄建設の営業もしたりした。
 いまから24、5年も前、まだ西谷さんが存命中のある夜、焼トリ屋で隣り合わせに呑んでいた栗原哲也さんが、例の粘っこいさぐるような眼つきで、にやっとしながら、「西谷能雄伝を書かないかねえ」と、わたしをそそのかした。1981年、日本経済評論社にとっての最大のピンチの折、西谷さんは救世主のようにして栗原さんと出会った。わたしとの出会いでもあった。その経緯の若干は、昨年10月、非売品で刊行された栗原さんの筆による『私どもはかくありき──日本経済評論社のあとかた』に書かれているが、つまりは、西谷さんへの〝ご恩がえし〟を、一緒にやろうじゃないかということである。
 ところがである。事態は、もっぱらわたしの怠慢で一向にすすまず、西谷さんは、間もなくあの世へ。そして、やがて、前述の『私どもはかくありき』にも一章をさかれるほど、栗原さんと親交を深め、「平和に対し、金も出し、汗も流し、口も人一倍出した庄さん」も、「アバヨ!」の一言も残さず、〝戦争難民〟として辿りついた〝祖国〟に、まるで愛想づかしをしたかのように、あの世へ。それでもなお、お前さんは、沈黙をしていていいのか!栗原さんと会うたびに、声なき声が、わたしを脅迫する。
 事ここに至っては、匹夫も立たざるべからず。しかしもはや、匹夫には、自力で立つ体力がない。ならば、一人は〝全身出版人〟として、一人は〝全身市民運動家〟として遺した多くの文章・談話を選び編集して、それぞれに直接語ってもらうほかはない。それが『西谷能雄 本は志にあり』と、『庄幸司郎 たたかう戦後精神』である。
 この二冊が、現在の出版界に向けての、わたしと栗原さんのささやかな弔い合戦になるかどうか。         [まつもと まさつぐ/影書房・編集者]