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三行半研究余滴13 新発見の休状──なぜ三行半になったのか

高木 侃

表題が「休状」となっている三くだり半を今年六月入手した。これは1300通を調査したなかでもただ1通という珍しいもので、まず解読文と写真(次頁)を掲げる。用紙はタテ23.5、ヨコ32.8センチで、三行半である。
    休  状
一其元義、気あい被(不)申、りゑん
いたし候 所 実 正 也、いつくゑ
縁 付 被 致 候 共、一言之申分
 無御座候、仍て如件
  文政十三年
   寅三月   武  助
   お き そ殿 
本文の読み下しはつぎのとおり。
そこもと義、気あい申さず、りゑんいたしそうろう所実正なり、いつくへ縁付きいたされそうろうとも、一言の申し分ござなくそうろう、よってくだんのごとし
本状は、山城国相楽郡笠置村(現京都府相楽郡笠置町)で、舟運業、両替商、後には酒造業も営んだ商家の文書。
「休状」は相応の嫁ぎ先を離縁されたこの家の娘が受理した離縁状であろうか。初めて見出した「休状」という表題である。一行目の離婚理由にあたる部分は文字としては気合「被申」だが、これでは意味をなさず、筆者は「不申」と読み、「気合申さず」とした。性格の不一致の意味であるが、この種の三くだり半はこれまで九通しかない。
先夫は教養人で、当時流行っていた『水滸伝』の訓点本もしくは翻訳本に親しんでいたに違いなく、そこには中国の離縁状「休書」も登場する。そのことを知っていた夫は表題を「休書」とすべきところ、わが国では離縁状・去状など「状」を用いたことから「休書」の書を状と改めて用い、表題を「休状」としたに違いない。当時の上層町人の教養の高さを証する離縁状といえる。
ところで、なぜ三行半になったのか、については、古く穂積重遠が紹介した説が三つあり、七行半分説、遊里発生説、三・五凶数説である。ここでは具体的にふれないが、石井良助も、この三説はいずれも牽強付会たるを免れないとし、三行半の慣行成立について独自の見解を示した。 離縁状の本文の長さの関係から、自然に三行半に書かれたのであり、はじめは単なる偶然の事実であったのが、積習の結果、一つの俗習にまで発達したというものである(積習結果説)。
さらに自説を発展させて「二つの原因があると考える。その一は、離縁状は短いのがいいという思想であり、 その二は『七去(棄妻原因)』の思想の影響」とした(七去影響説)。ゆかりの数字にちなむことはよく見られ、例えば、聖徳太子17条憲法を、天地人、3才に配して51か条にした御成敗式目のように、離婚ゆかりの七(去)の半分で三・五、三行半というのである。
筆者の説は「休書模倣説」であり、わが国の離縁状が中国の離縁状「休書」の模倣であるという説である。中国の離縁状の原物は見ることはできなかったから、舶載本によったわけだが、『水滸伝』の休書は二一文字三行と四文字、『古今小説』のそれは一九文字三行と一三文字からなる。これで中国では三行半に書くものと考えた。さらに休書に「本婦多有過失、正合七出之条、因念夫妻之情、不忍明言」などとある。夫婦の情を思い、あえて妻の過失には触れないというもので、離婚理由を明記しなかったことなど、わが国の離縁状が、妻を配慮する内容になっていることにも反映されている。
結局のところ、わが国の離縁状が三行半になったのは、中国の離縁状、休書の模倣であって、形式的には、休書が三行と少し、あるいはほぼ半分の文字数であったから、これを模倣して三行半になり、内容的(思想的)には、妻へ配慮する内容になった。
しかも、ここに休状という表題の離縁状が出て来たということは、表題に関しても休書を模倣したことの、傍証資料といえる。七去影響説もさることながら、休状の出現で休書模倣説に軍配をあげてもよいのではなかろうか。
[たかぎ ただし/専修大学史編集主幹・太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長]