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比較家族史学会の草創の頃  ──「家族研究の最前線」の刊行開始に寄せて

森 謙二

家族史研究の学際的な交流は、『講座 家族』(1973)や季刊『家族史研究』(1980)のように、比較家族史学会が創立される時にはその環境は整っていた。1982年の第1回研究懇話会(発起人 江守五夫・有地亨・利谷信義)は10人前後の小規模なものであったが、研究懇話会の終了後、都内の喫茶店で今後の研究会についての話し合いがもたれ、異なった専門分野における家族研究の現状を報告することから始めることになった。そのとき、刊行されたばかりの『家族史研究』第六号(特集家族と社会諸科学)が話題となり、その合評会形式の研究会は開催されることになった。
1983年1月、第2回研究懇話会が開催された。「江戸時代の離婚法」について鎌田浩先生、司会を髙木侃氏が担当し、これをきっかけに、あとになって「家と家父長制」が研究大会のテーマとなった。そして「家族と社会諸科学」のコメントには水林彪(法制史)・生方卓(哲学)・清水浩昭(社会学)の各氏、私もこれに参加し、同年五月の第3回研究懇話会において、日本史の研究状況が報告され、鷲見等曜(古代)・飯沼賢司(中世)・大島真理夫(近世)の各氏、シンポジウムのコメントを兼ねた司会として吉田孝(古代史)・瀬野精一郎(中世史)・水林彪(法史学)・永原和子(近代史)・村武精一(社会人類学)の各氏が参加された。同年10月には第4回研究懇話会として社会人類学では渡辺欣雄氏、民俗学から上野和男氏が登壇し、日本の家についてのシンポジウムでは主報告を中野卓先生、コメントを正岡寬司(社会学)・上野和男(民俗学)・大藤修(日本近世史)の各氏が、そして司会を村武先生が担当している。
これらの議論を通じ、アプローチの方法が異なっていたとはいえ、議論が家理論に集約される傾向がわかった。最初のシンポジウムのテーマは「家理論」についてであった。中野卓先生の家理論を中心に、社会学・民俗学・歴史学のそれぞれの立場から議論を行った。この時の記録が中込睦子さんの文責で会報第1号に残されている。
あらゆる世代の、あらゆる分野の研究者が集まった研究懇話会は実に活気に満ちあふれていた。もちろん、課題もあった。「家」や「家父長制」等の概念についてそれぞれの学問分野で異なっていることが指摘されたが、学会として学問分野によって異なる諸概念を統一化するのではなく、その違いを認識しながらそれぞれの専門分野に持ち帰ること、それを媒介するのが学会の役割である、という議論もだされた。
第4回研究懇話会の終了後、比較家族史研究会の会員数は100人を超え、規約を定め、世話人会(当時は理事会ではなかった)も発足し、会長を永原慶二先生にお願いした。また、各分野の研究史の報告が終わった後、世話人会の提案によってテーマ設定についてアンケート調査が行われた。そのなかでノミネートされたテーマが、以降の研究大会のテーマとなっていった。このころの事務局を担当していたのは、飯沼賢司さんと服藤早苗さんと私、それに山田昌弘さんや落合恵美子さんがその周辺にいた。
学際的な学問交流がそれなりの成果をあげたと実感できたのはそれから十年後の『事典 家族』の編集の時である。有地委員長を中心に23人の編集委員のうち七人の常任編集委員が東京の多摩センターのホテルで2泊3日の合宿を行った。まだ若手の研究者であった福田アジオ先生から、大竹秀男会長(当時)も参加された。この会議に出席された諸先生は自己の専門分野以外の研究者の名前をよく覚えておられ、すでに交流が進んでいることを実感した。また、当時の大項目として取り上げた「家族」や「家」の項目は比較家族史学会の性格をよく表現したものであり、これからも若い研究者に読んでほしい文献である。
ともあれ、比較家族史学会の草創期に「家理論」から出発し、戦後の経済成長を果たした日本でも多様な議論が展開された。今回は「家族の個人化」が進んだ中で再び〈家〉をテーマとした。「家族研究の最前線」のシリーズの第一巻が『家と共同性』というのも、それだけ「家理論」のもつ問題が大きいことを示している。編者の加藤彰彦さんも言及しているように、有賀喜左衛門が家の「生活保障機能」に注目しているように、家は人々のケアー(=福祉)の担い手でもあった。ヨーロッパでも市町村(Gemeinde)を大きな家(large house)と表現している。ここでも福祉の担い手を〈大きな家〉と呼んでいる。家のもつ共同性を強調するのも、人間社会の共同性と深く関わるからである。
[もり けんじ/比較家族史学会会長]