神保町の窓から(抄)

▼【吟ごあいさつ】あんときゃ希望もあったし、夢もあったなどと云えばいかにも意識的に生きていた青年のように聞こえるかも知れない。  ところが、中学生のときはA子に気があり、高校ではN子やF子を思って勉強も手につかず、東京の大学に来てからは、村の娘のことなどすっかり忘れ、安保闘争の中で人民だの革命だのと世界史がわかったようなことを口走るようになっていた。20歳になったころ、己の凡たるを思い知らされ、一人きり(個)で快楽を獲得することの無謀さに気がついた。だが、連帯とか協同、同志とか兄弟、ましてや絆・目合いなどという言語にまでは至っていなかった。人と繋がってしか生きられないことがうすうすわかりかけた段階だったろう。  そんな中で、いずれは教師になろうと思いつめた。教師ほど人間くさい仕事はないと確信したのだ。人間という生き物とともに育つ、そのことに心休まる魅力を憶えたのだ。大学卒業を迎えた春、郷里の教員試験を受けた。採用通知は4月に入っても来なかった。少しイラついたわたしは大学の恩師に心中を訴えた。「教師もいいが、出版も人との関係で成り立つ仕事だ。考えてみるか」と問われ、モジモジするわたしに、ある老舗出版社を紹介してくれたのだった。その出版社に勤め始め、教師の口を断念しかけた頃、田舎の教育委員会から採用通知がきた。どうする。わたしは一か月も働き月給も受けとってしまった出版社を選びとった。出版を通して人の心を耕そう、そう自分に言いきかせ、「出版ほど人間くさい仕事はない」と思いこみを変換した。人との攻防の中で己を昇華する、これが出版に足を踏み入れた頃のわたしの心情であった。「出版を通して世界に平和を!」なんて、社会変革を志し、歯をくいしばってこの道に足を踏み入れたわけではなかった。  1970年、先輩の野望に同調し日本経済評論社を創業した。出発から何年かは社業は軌道に乗らず、持ち帰る給料もわずかであった。新妻は悲しい顔はしたが、洋々と出社するわたしの背に微笑みを投げかけてくれた。生まれた子たちは何も知らずにオモチャを強請った。  快い人間関係、という観点からすれば、1974年ころ、経営史の大家明治大学の山口和雄先生に遭遇したことだ。研究者、学者という職業を選んだ人に対する見方が変わったように思う。一見何の役に立っているか判らないが、学問する人々を畏敬の念をもって見るようになった。山口先生の後継の数々は今でも深い関係が続き、その指導に断絶はない。その後出会った柴田敬や杉原四郎、杉山忠平の各先生に先立つわたしの中の巨峰である。 ▼先生方に親しく接し、話を聞き、ともに喫茶したとて拵えた本が売れたのか。1981年、在庫の山に押し潰されそうになり、会社は危機に見舞われた。いろいろなことが生起したが、わたしは人として鍛えられるいい機会を得た。冷酷な銀行、棄てる業者、非情な著者、誰も寄りつかない。わたしは、どこまで続くかあてもない泥濘の中で社長職を抱擁した。今も在職するTとS、そしてIさんだけが残ってわたしの末路を見届けようとしてくれた。骨拾いというな、この三人はこの社の復活に青春を賭けてくれたのだ。  その後、わたしは恵まれた。よくできた社員と売れる本を書く著者の参加を得た。わたしたちの努力に金融機関も業者も機嫌を直し、惜しみない支援をしてくれた。会社は持続し45年目の朝を迎えた。 ▼去る6月、決算総会を開き、来し方の営業成績を展覧し、株主様の意見を聞いた。会社は拡大・成長したとは言えないが、持続し、その存在を小さな世間に認知されたことを評価していただいた。続いて議題となった人事改選で(吟)爺は代表を退くことになった。  肉体の摩耗の所為ばかりではない。歳がもたらす耄碌的発想や使用言語の通訳不能性などが、しばしば指摘された。「人物叢書」を作ろうと発議されたとき、かつてあった「日本偉人伝物語」のようなことを主張するのだ。例の新島襄、野口英世、キュリー夫人……と続くイメージ。マルクスを語るのに「正反合」とか「螺旋」とか云っても誰にも通じなくなっていた。まして今追い込みにかかっている「服部之総伝」など馴染みは極薄になっている。こんな日常のなかでさえ「あんた、なに云ってんの」と問われることが出過ぎていた。取り返しはつかない。新しい時代の舵取りは新しい知性やフィーリングでしか出来まい。わたしは観念した。  商売よりも人との交歓を価値としたわたしの所業の始末だ。お世話を掛けっぱなしで何等お応えできませんでしたが、この儀、ご理解いただきたくお報らせ申しあげます。後継は気鋭の営業部長が選任されました。別途ご挨拶の機会をいただきたいと存じますが、変わらぬお導きをお願い申しあげます。   憂きことの なおこのうえに つもれかし      限りある身の 力ためさん (蕃山) (吟)