「長野原学研究会」の始動

老川 慶喜

昨年3月に北陸新幹線が金沢まで延伸し、富山・石川・福井の北陸三県に空前の観光ブームをもたらした。また、この3月には北海道新幹線新青森~新函館北斗間が開通した。訪日外国人観光客数も、昨年度は1900万人を突破し、大阪で万国博覧会が開催された1970年以来、45年ぶりに日本人海外渡航者の数を上回った しかし、年明けとともに株価は続落し、この数年来政府や財界が声高に叫んでいる地方創生もそれほどうまくはいっていない。観光ブームが到来している中で、多くの地域社会はむしろ疲弊しているかのような印象を受ける。バブル経済崩壊後、日本は「失われた10年」を経験したが、それが20年、30年と引き伸ばされているかのようである。 その要因はさまざまで、とても一言では表現できないが、もっとも重要なのは高度成長期以来の半世紀以上にわたる国づくり、地域づくりへの真摯な反省がなされていないという点にあるように思われる。過疎も東京への一極集中も、「無縁社会」(共同体の破壊)も、いまいま始まったことではなく、ひたすら「大規模・集中化」による「成長」を求めてきた、高度成長期以来の国づくり、地域づくりがもたらしたものといえる。 そこで私が勤務する跡見学園女子大学では、観光コミュニティ学部の教員が中心となって「長野原学研究会」を始動させ、長野原学研究所を設立させた。この学部は昨年4月に開設された生まれたばかりの学部であるが、群馬県吾妻郡長野原町において、日本の地域社会が直面している大きな課題の解明に、同町と協同して取り組もうと考えたのである。 長野原町は、群馬県の北西部に位置し、地域のほとんどが標高500メートル以上の高地で、総面積は133.85平方キロメートルほどである。そして、北部は吾妻川流域、南部は浅間高原地帯に属し、主要産業は高原野菜の栽培や酪農などの農業で、とくにトウモロコシ、トマト、レタス、白菜、ブルーベリー、花豆などが特産として知られている。 民主党政権のときに建設工事を止められた八ツ場ダムは、自民党政権のもとで復活し、周辺工事はほぼ終了し、本体工事に取りかかろうとしている。八ッ場ダムの建設で湖底に沈むことになった川原湯温泉は、すでに山の上に移転し、新たな温泉街を形成しつつある。ただし、この過程でいくつかの温泉旅館が廃業している。 南部の北軽井沢地区には、戦前期からの「大学村」「一匡邑」という特色ある別荘地があり、戦後には草軽電鉄が通ったこともあって、「音楽村」「王領地の森」など、さまざまな別荘地がつくられてきた。実は跡見学園も、長野原町の北軽井沢地区に1957年に研修所、62年に自然観察園を開設しており、長野原町とは浅からぬ縁があった。 長野原町は、1889年の町村制施行により一町九村が合併して誕生したのであるが、そのときの人口は3021人であった。以来、同町の人口は増加し続け、第1回国勢調査が行われた1920年には5057人、高度経済成長が始まる55年には8349人となった。しかし、その後は減少に転じ、2016年1月現在の人口は5844人である。1925年の人口が5877人であったから、90年以上も前の大正期の水準に戻ったことになる。 やや個人的な事情で恐縮であるが、私は20年ほど前に北軽井沢音楽村という別荘地に小さな山荘を建てた。以来、長野原町で時間を過ごすことが多くなったが、この間長野原町が日に日に衰微していくのを実感してきた。1995年の人口は、7015人であったから、この20年の間に1000人以上もの人口減がおこったことになる。山荘の近くにあった「ミルク村」という観光施設もかつての勢いはない。「マウンテン牧場」などといった観光牧場も姿を消した。地元の大型スーパーも倒産して人手に渡り、今では五月の連休や夏季のみの開店となり、品揃えも著しく悪くなった。 地域創生のかけ声とともに、大学が自治体と協力して観光地としての再生の道を探る取り組みがさかんである。跡見学園女子大学も、多くの自治体と 共同してそうした取り組みを行っている。それも大切であるが、やはり大学としては、地域の衰退がなぜ生じたのかを、あらゆる手法を用いて学問的に解明する必要がある。ささやかではあるが、跡見学園女子大学はそうした試みに一歩踏み出したのである。  [おいかわ よしのぶ/跡見学園女子大学観光コミュニティ学部教授]