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  • PR誌『評論』204号:定年技術者が経済史研究 ──『中島飛行機の技術と経営』を上梓して

定年技術者が経済史研究 ──『中島飛行機の技術と経営』を上梓して

佐藤 達男

文系学問には縁のなかった技術者が還暦を過ぎて始めた経済史研究が、古希を過ぎて博士論文となり、加筆・改稿して上梓することができた。先輩、友人の多くからはチャレンジ精神を評価され、自身も第二の人生の目標を達成した感慨はある。定年後になぜ経済史研究を始めたか。特に深い考えがあったわけではない。富士重工業で40年近くを技術者として航空機開発に従事し、やれる所まではやったというやり尽くし感があった。残りの人生は理系から離れて文系の勉強に取り組んでみたかったのである。それが徐々に研究の面白さという深みにはまって、博士論文を執筆するところにまで至ったというのが実態である。結果的には航空技術者としての知見、知識を生かして戦時期航空機産業史を研究することになったのであるから、全く理系から離れられたわけではなかったが。 研究対象に対するいわゆる土地勘、興味のありようから、戦時経済→航空機産業→中島飛行機と研究テーマを絞り込んでいった。富士重工業の前身である中島飛行機にシンパシーを感じていたことが、中島飛行機を研究テーマとした最大の理由であった。研究テーマを絞る過程は容易なものではなく、研究期間も半ば以上を過ぎてからやっとたどり着いたものである。技術者が経済史研究を志して困ったのは、経済史研究の基礎的知識がないことであった。博士論文の論点は専門的でかつ新規性、独創性が必要とされることは当然で、論文執筆と併行して研究史を辿り、従来の中島飛行機研究に新たな知見を加えるよう努力した。第一は中島飛行機単独ではなく三菱重工業をベンチマークとして企業間比較の視点を取り入れたこと、第二は機体およびエンジンの技術的側面、性能、生産能力、生産性、価格、財務諸表等をできるだけ数値的に評価することであった。企業間比較では、数値による公平性の担保は必須のものであるという考えからである。第三には、アメリカ航空機産業およびアメリカ軍機との比較も行い、世界における中島飛行機の技術的位置付けを行うことであった。 歴史資料のデジタル化、インターネットによる公開が進み、アクセス、検索が容易になったことは幸いであった。ネット社会以前であれば、資料の検索、収集に、より長期間を要したであろう。美濃部洋次文書、大本営「密大日記」、持株会社整理委員会資料、米軍の公開資料などから、従来の中島飛行機研究では触れられなかった記述、データを新規に発掘することができた。占領軍がまとめたアメリカ戦略爆撃調査団報告書は戦時経済に関する資料の宝庫で、この報告書に記載されたデータの精査、処理、分析により従来の研究レベルを超える知見を提示することができた。理系の出身である利点が生かせた部分である。 企業の創業理念はどのようにして引き継がれ、社会に受け入れられる企業風土はどのようにして醸成されていくのであろうか。最近の、日本の伝統企業の企業統治能力の劣化と不祥事の続発をみるに、これらを達成するのは大変困難なことであると考えられる。年々歳々人は変わる、世の中も変わる、企業環境も変わる。企業理念は変わらなくても、具体的な日常業務に落とし込む方策は環境変化への適応が必要で、それを経営者、従業員のすべてが共有し実行する企業風土が醸成されていることが大切であろう。 幾度もの提携失敗、経営危機を乗り越えて、富士重工業の業績が今日好調である理由は何か。中島飛行機から富士重工業の現在に至るまで、企業理念の第一におかれた「顧客目線で品質第一」が企業行動に現れ、顧客に支持されたものと筆者は理解している。企業理念と組織そして人との関わりの中で、中島飛行機の伝統、風土が生き続けているのか否か、本書では詰め切れなかった課題である。 富士重工業は来る2017年の中島飛行機創立100周年を期して、社名を「株式会社SUBARU」に変更すると決定した。グローバルに展開する企業戦略としては正しいのであろうが、60年以上続いた富士重工業という社名が消えることで、中島飛行機はさらに歴史の彼方へ消えていく。本書は中島飛行機への鎮魂歌ともなった。 [さとう たつお/立教大学博士(経済学)]