神保町の窓から(抄)

▼他国を武力で守らねばならぬ集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法が、9月19日の明け方、参院本会議で自民・公明(+次世代、元気、改革)などの賛成多数で可決成立した。この模様はテレビで見たが、議長席につめ寄る野党議員とそれを守る自民の防衛隊とのもみ合いだけが見え、どこで賛否が問われたのか画像からは判別できなかった。憲法改正も九条解体も、真っ正面に立てて闘うことをせず、解釈の変更によってこの法案を通してしまった安倍政権の乱行は、長く政治史に記録されるだろう。この夜も反対集会は続けられた。国会周辺では青年だけでなく、年老いた知識人らしき人びとも数多く見受けられた。「賛成した議員は次の選挙で落とそう」と、早くも次の戦術をシュプレヒコールしていた。  1960年夏、雨の中、国会の側に座り込んでいた。このときの合言葉は「岸を倒せ」だった。55年後のある晩、国会議事堂前駅で降りて、デモ隊の息づかいを体感しに行った。花がさいたような衣裳の集団に囲まれ、何かとまどいのようなものを感じた。いままでここに来なかったのは、激しい行進についていけないだろうと感じていたからだった。竹竿につかまりジグザグをくり返していたかつての体験はただの懸念だった。みんな規則正しく歩道に列し、それぞれの集団が輪をつくっていた。「個人」の参加だという。旗はあまりなく、コピーしたプラカードが目立った。私は手ぶらだ。近くにいた青年が「戦争法案、いますぐ廃案」と音頭をとったので「イマスグハイアン」と応じたが、声になっていなかった。一人できたというせいもあろうが、連帯がわき上がってきたとは言いがたい。何なんだろう、このとり残され感は。結局、小一時間でそこを離れ、新橋の土橋近くで一杯やって家路についた。  翌朝目覚め、若干の疲れを意識しながら考えた。昨夜の違和感は何だったのだろう。私の体が知っているデモと、形式の違いもあったろう。あのときは、隊列を組む、林立する大学や労組の旗の波、戦闘服とはいわないにしてもそれなりの恰好はしていた。面相もちがうな。笑顔などなかった。動員されたのではない「個」が自発的に集まったデモ。60年代に比べ、それは進化しているのだろう。それを是認する論調は多い。だが、私には何かこの隊列の後に黙ってくっついて行けない何かを感じた。胸には小さく折りたたんだ「アベ政治を許さない」とコピーされたプラカードもどきも用意していたのだったが。 ▼これは私個人のことにすぎないだろう。「時代にとり残されている」「環境の変化が分かっていない」。そんな気もする。人と時代は動いているのだ。安保法制のことはともかく、私は日常において、このズレのようなものに気づかずに生きてきたのか。「正・反・合」だの「アウフヘーベン」だのと、まるで死語になったような言葉を盾に、あるいはしがみついて、貧乏を笑い飛ばしてきたのだ。わが社には優秀な編集者やスタッフがいる。その仲間たちがいて、この時代錯誤をフォローしてくれていたことに思いを致すとき、内輪ながら感謝する。  ある晩、同世代の友人にこの心境について話してみた。友人に「あなたのズレは、今に始まったことではないだろう。今ごろ気づいたのか」と軽蔑された。そのズッコケに対する優越感や共感、あるいは苦笑などがあなたとあなた方の仕事を支持(か容認)してきたんだろう、ともつけ加えてくれたが。私は家父長制や過去や経験に呪縛されているのかも知れない。「長幼の序」とか「父母に孝に、朋友相信じ……」なんてことを否定しない自分がいる。だが、安定した感情を持ち続けられないとしたら、その発想と行動が強権・専断という欲望に向かってしまうだろうという懼れも抱いている。 ▼本欄を最初に書いたのが1980年、あの時から皆さんの前にツイートしつづけてきた。あるときは経営の苦しみを訴え、あるときは出来た本を喜び、あるときは知人の早い死を悼んだ。そんなことごとを皆さんと共有してきた。励ましも叱責も同量ほどいただいた。そのどなたの顔も私の中に保存されている。嬉しい追憶の塊です。それはそれで、ここまできましたが、執筆する(吟)の思考と発想には革命に近い変革が必要だと気づく。今ごろ気づいたか、と再び云われそうだが、変わることなど出来るのか。前号200号において、幾人もの先生が、わが社の行く末について、心配そうに語ってくれました。先生方のご期待の前に、私たちは答えていかなければならない責務はある。新しい研究者のこと、売れない本のこと、歳がかさんできた構成メンバーのこと。持続することも。沢山ある問題にどう呼応するのか。そのための悶えも今しなければならないと覚悟する。それはここにいて、なお前進しようとしている賢明な仲間と共にだ。201号にあたり、なおいっそうのご指導とご支援、ご理解をあらためてお願いする次第です。 (吟)