底辺ルポと明治の青春

斎藤 美奈子

横山源之助『日本之下層社会』(1899年)は、細井和喜蔵『女工哀史』(1925年)と並んで、私には格別に思い入れのある本だ。明治の労働者の実態を知る上でこの二冊が欠かせない文献であるのはもちろんだが、史料的価値は別にしても、そこでは労働者、生活者として庶民の姿が生き生きと活写されており、ルポルタージュとして抜群におもしろいのだ。 とはいえ、著者である横山源之助や細井和喜蔵については、あまり知られていないのではあるまいか。 28歳で『女工哀史』を出し、わずか一か月後に没した細井和喜蔵の一生には、細井の妻だった高井としを『わたしの「女工哀史」』(1980年)が今年、岩波文庫に入り、また和久田薫『『女工哀史』の誕生』が出版されて、かなり近づきやすくなった。 一方、横山源之助については立花雄一『評伝 横山源之助──底辺社会・文学・労働運動』(1979年)が決定版ともいうべき位置にあったが、長い間、品切れ状態が続いていた。しかし、やったー! その幻の評伝が『横山源之助伝──下層社会からの叫び声』の表題でこのほど日本経済評論社から新版として復刊された。立花さんの名前は1985年に改版になった岩波文庫版『日本の下層社会』巻末の「横山源之助小伝」で知っていたものの、評伝を読むのははじめて。 横山源之助は1871(明治4)年2月、富山県魚津町(現魚津市)に生まれた。魚津といえば米騒動で有名な土地だが、米騒動が起こるのは横山の没後である。父母は不詳。生まれてまもなく左官職人の横山夫妻に引き取られ、小学校卒業後、短い徒弟生活を経て、できたばかりの中学校に入学した。だが、彼はせっかく入った中学を一年でやめ、弁護士をめざして15歳で上京。さらにはその夢も破れて、しばし放浪生活に入るのだ。ここから先は意外な(しかし、いわれてみれば納得できる)事実の連続である。 第一に、横山源之助と綺羅星のごとき明治の文学者たちとの交流である。とりわけ7歳年上の二葉亭四迷との関係は生涯にわたるものとなった。 〈その頃まったく縁のなかった文学──二葉亭の『浮雲』に共鳴したのも、権力機構の内側からはじきだされ、余計者的境涯に煩悶する主人公文三のそれがあたかも横山自身のそれにどこか似ていたからにちがいない。横山源之助の精神的放浪は二葉亭の『浮雲』を基軸としたかのように、文学、宗教の極北におしひろげられ、やがて貧民、労働者問題研究にという終世のテーマにたどりついていくのである〉(「第二章 二葉亭四迷の門へ」) 『浮雲』と『日本之下層社会』がつながるなんて、考えたこともなかった。斎藤緑雨や樋口一葉とも親しかったらしい横山源之助。もしかしたら三人は三角関係だったかも、などと考えると明治の青春ドラマを見るようだ。 第二に、横山源之助は初期の労働運動の担い手でもあったことである。彼が下層社会ルポを精力的に執筆したのは毎日新聞社(現在の毎日新聞とは別の会社)に入社し、社会面や文化面を担当しながら全国を調査して歩いた時代である。『日本之下層社会』はそうした経験をさらに昇華させることで完成した本といえるが、しかし彼の活動はジャーナリストとしてのそれにとどまらなかった。片山潜らとの交流を通して黎明期の労働運動に身を投じ、しかし過労で帰郷を余儀なくされる。 〈明治30(1897)年、日本ではじめておきた労働運動の渦中に、文学の領域からとびこんでいったものは他に誰かあったか。横山源之助ただひとりである〉〈横山源之助は近代最初の庶民思想家であったとおもわれる〉〈それは不運な労働運動者の一生であった〉(「はじめに」より) 横山源之助の「人となり」を伝えると同時に、横山に対する著者の深い敬愛の念を感じさせる一文だ。 44歳で没するまでの横山源之助の後半生にも興味深いところがあるけれど、しかし『日本之下層社会』が『女工哀史』と同様、28歳のときの作品であったことに驚かされる。横山源之助の評伝であると同時に、多様な資料を駆使して、黎明期の文学界とジャーナリズムと労働運動の熱気までも伝える労作。興奮しながら読了した。 [さいとう みなこ/文芸評論家]