研究者とは何か

湯沢 威

この問いに答える前に、研究者と他の職業との違いは何か、研究者、教授、学者の定義は何か、そもそも研究者の資格要件は何か、などさまざま考えておかなければならない問題がある。しかし、ここでは単に大学に籍をおいて研究教育に従事した一個人の事例を提示するにとどめたい。なぜなら「戦後70年」という特集で、「研究者とはなにか」を問いかけることは、戦後史における私の生き方を反省する場でもあると、考えるからである。私は1940年に生まれ、大学の教育研究に携わって41年、停年退職から今年で4年目に入るが、何の目的で研究者になり、そして何をしてきたのか、戦後史の中での自分の軌跡を考えてみたい。
学生からは、何で大学の先生になったのですか、とよく聞かれたことがあった。大学時代にはほとんど授業には出席することなく、それよりも友人同士で天下国家を案じ、その未来の行く末について夜を徹して議論をしていた。大学の講義を受けるよりも、自分たちの読書会の方がもっと役に立つという自負もあった。現実の政治、経済、社会に対する疑問や不安に対して、大学の教育体系の枠組みの中では、答えを見いだせない、と断じていた。60年代、70年代に学生時代を過ごした人の中には、このような思いをもった人は多かったのではないだろうか。4年間の学生生活のあとに、社会に飛び出すにはあまりにも理念と現実とのギャップがありすぎた。そこで安易な妥協の道は大学院への進学であった。それを受け入れてくれた大学には迷惑千万な話であったであろう。
大学院で勉強を始めてようやく学問の奥深さ、面白さに触れることになった。学生時代の単純な、善か悪かの二項対立で物事を見てきたことへの反省もあった。しかもその背景には、しばしば党利党略が絡んでおり、恣意的な事実の発見や論理の組み立てがなされることも多く、学問とはいったい何なのか、と改めて考えさせられた。「価値自由」の立場で、大学院では多様な価値観、学問の多様な手法を学ぶことになった。また既存の学問体系を批判するのであれば、それを内在的に行わなければならない、ことも悟った。大学院では経済史や経営史という学問に専念したが、経済発展の原動力は何であったのか、その担い手はどのような人たちであったのか、またそれを可能にした組織は何であったのか、などに関心を移した。旧来の経済史の枠の中では、個人や組織などは「上部構造」の末梢要因にしか見られず、軽視されてきた分野であった。
ところで歴史研究はすでに答えが出ている事実に対して、後付の解釈をするという学問的な安心さもあった。もちろんそこには実証の厳しさ、ロジックの厳密さが求められるが、現実そのものに直接対峙して価値判断を迫られるという厳しさから逃れることもできた。だからと言って、歴史家は現実から逃避を許されるのではなく、現実に起こる諸事象を歴史過程の中に位置付けて考えるという、重要な思考様式を持っている。過去の事実に基づく判断は、現実のしがらみから離れて、より長期的な時間軸で、政治、経済、社会現象を客観的に理解することができる、と思っている。
私が大学に職を得たころの日本は、高度成長期の真っただ中にあり、「日本的経営」が国際的にも関心を持たれた。私はイギリスを専門にしていたので、日本とは対照的な軌跡を描いていた「イギリスの衰退」を中心テーマとした。それでも、歴史の進むべき方向性としては、資本主義、社会主義、それぞれ問題を抱えながらも、相対的には社会主義の方が、より理想的な姿かな、と考えていた。しかしそのような考えを根底から打ち砕いたのは、一九八九年のベルリンの壁の崩壊、その二年後のソ連の崩壊であった。いずれもその直前に、ベルリン、モスクワを訪れていたので、ショックはひとしおだった。
20世紀の末から「日本の衰退」が始まり、またそれとは対照的に中国経済の躍進が始まった。それを歴史研究の視野の中にいち早く取り入れて、カリフォルニア学派のグローバル経済史が隆盛している。グローバルな視点での歴史の見直しは重要であるし、現実の世界経済の実情に合わせて、歴史構想を再構築することも必要であろう。しかしイギリスの産業革命に始まる工業化の歴史が、ただ単に「逸脱」で説明できるのかどうか、大いに疑問がある。現代はその意味では混沌とした時代に入っている。歴史に対する多様な見方、柔軟な見方は大いに歓迎すべきであるが、歴史の法則性や歴史を動かす原動力はなにか、をたえず追い求めていかなければならない。
[ゆざわ たけし/学習院大学名誉教授]