おもいでの永原慶二先生

鈴木敦子

 今年の7月で、永原先生が亡くなられて、早いもので5年になる。私は、吉川弘文館から一昨年出版された、『永原慶二著作選集』(全10巻)の中の第5巻『大名領国制 中世後期の社会と経済』の解説を書かせていただいた。私の専門は中世の流通経済であることから、先生の著作の中から中世後期の経済構造に関する研究論文を集めた巻を担当させていただいたのである。先生の論稿を読み進めていくうちに、先生の歴史研究における論理の一貫性を改めて辿ることができた。先生の研究テーマは、1950〜60年代の中世前期の荘園制から始まり、70年代には後期の大名領国制へと移っていくが、その関心の根底にあったのは社会構成体論に基づいた生産関係と国家・土地制度の問題であった。私が一橋大学の大学院に籍を置いていた時期は、大名領国制研究に最も強い関心を持たれていた時期であり、中世の流通構造の解明を研究テーマとしていた私は、今ひとつ先生の研究に対する理解に欠けていた点があったと思う。
 私は81年に東北にある大学に就職することとなり、東京を離れたのだが、その頃から先生は商品経済や流通構造・社会的分業問題に研究の関心をシフトしていった。80年代は、日本中世史の学界でも都市や流通経済への問題関心が深まった時期で、さらに網野善彦氏の社会史が学界に大反響を起こしていたこともあり、先生の研究は時宜に適したものであったといえよう。ただこの分野への研究関心は、単に学界状況によるものだけではない。先生は前述のように、土地制度に基本をおいた生産力の発展に歴史変革の原動力が存在するとのお考えだったので、中世社会を総体として捉えるためにはこの分野は不可欠なものと考えていらしたのだろう。そして、先生はそれらの研究の成果であるご著書や抜刷りを、私にしばしば送ってくださった。手にするたびに私はお尻りをたたかれている気がして、怠惰な生活を反省ばかりしていた。
しかし、年に数度学会や研究会、一橋大永原ゼミと学芸大佐藤ゼミとの合同ゼミ(これは現在も継続している)などでお会いする機会に、先生から伺う研究上のお話はとても楽しいものになっていった。やっと私と先生との話題がかみ合ってきたのである。とても力を入れていらした島根県益田市の三宅御土居の遺跡保存問題のお話は、94年から佐賀大学に移っていた私には、戦国期の九州博多や玄海地域とを結ぶ日本海側の海上ルートや石見銀山との関係など興味がつきなかった。私は近年やっと中近世移行期の肥前国内の銀の流通問題を追求し始めたが、この時の先生のお話がとても参考になっている。
 もう一つ先生が乞われて出かけられた場所に新潟県の村上市があった。先生は村上市を訪れた時のいろいろな話をしてくださった。私はそれ以前に三面川の記録映画を観ていたので、先生のお話は非常に興味深かった。苧麻の生産工程のお話などは、今では私が見たかのように講義の中で説明をしている。村上市を流れる三面川は鮭が遡上する川として有名である。ある冬に先生から「鮭の酒びたし」という三面の特産品をお送りいただいた。酒に浸して柔らかくしていただくもので、大変珍しい貴重なものであった。非常に美味であったのを覚えている。これを書いていてもう一度味わってみたくなった。
 またこの頃、先生が熊本の玉名市からの招聘を受けて講演(「肥後高瀬絞りとその周辺」『歴史玉名』27、1996年)に出かけられる途中に、佐賀にお寄りいただくことができた。夫(佐賀大経済学部教授)とともに吉野ヶ里をご案内し、夜は有明海の珍味を味わっていただいた。みどり三味線貝、わらすぼ、むつごろう等々はじめて召し上がるものばかりで、お店の方からの一つ一つの説明に興味深く耳を傾けておられた。お酒が進むにつれて饒舌になる先生を囲んで、子供達もご一緒しての賑やかなひとときであった。当時小学校の三年生だった娘は、この時以来永原先生のファンになっていて、現在東京で大学生活を送っているが、永原先生のような大学教授には出会えないと嘆いている。子供心にも永原先生は端正な紳士との印象が強かったようである。
 ところで、最近ある若い中世史研究者から永原先生のゼミでの指導とはどの様なものだったのか、と尋ねられた。私が一橋の大学院に在籍していたのは5年間であったので、他のゼミの方たちと比べて先生と接する時間が短かったのだが、ゼミの情景を思い出すと報告の際は誰も緊張していたと思う。私のことについて言うと、報告のために苦労して探してきた史料の多くは、先生にとっては見たことがあるものばかりであった。そのため私の課題の一つは、先生がご存じない史料を見つけることになっていた。そのような史料を提示できた時、先生が「ホーッ、面白い史料だね〜」と言って下さるのが、とてもうれしかった(ただその史料の読み込みは、苦労することが多かったのだが)。さらに、報告の内容にはできるだけ具体性を求められた。特産品は何か、どのように運搬されるのか等々。そして、そうした一つ一つの具体的な状況を積み上げて、一般化・論理化する事の重要性を教えていただいた。また、初めての論文執筆時にはとても丁寧な指導をしていただいた。忙しい時間をさいて、東大に出講されている空き時間に本郷3丁目の喫茶店や渋谷の東急プラザ近くの喫茶店でも見ていただいた記憶がある。今のようにワープロがない時代であるので、私のきたない字に辟易されていたのではないだろうか。さらに論文の題名をおろそかにしてはいけないこと、また内容がわかるような的確な題を付けること等々、今でも私にとって重要なノウハウである。
 近年、学生の卒論や修論の指導の際に学生達にしているアドバイスは、永原先生から私が受けた指導の受け売りなのだ、と気が付いた。ある時同じ永原ゼミの友人と話をしていて、お互い同じ指導をしていることに気が付き、妙に納得したものである。「永原先生の弟子です」というのは大変おこがましいのであるが、自分が受けた指導方法を学生たちに伝えていくことで、この言葉が生きているのだと、思っている。  [すずき あつこ/佐賀大学教授]