明日を夢に描く

武田 晴人

明日の世界を思い描いてみよう。そこに私たちは、どんな日々を思い描けるだろうか。私は、戦いのない、平穏な日々を夢見ている。自衛隊が海外派遣され、地域紛争に立ち向かう姿は見たくない。国や地域を問わず孫たちの世代が銃を持つ姿を見たくない。
平和の中で人種とか宗教とかの違いを超えて人が人として向き合い、和やかに語り合うことのできる明日に向かって進んでいることを信じたい。たくさんのことを望まなければ、そして、愚かな指標に振り回され、他者よりたくさんのモノを持ちたいという欲望に駆られない限り、私たちは平和で安定した日々を過ごす条件を十分に満たすことができる。それほどに恵まれている。ものの豊かさを量的な基準、お金で計った数値で表すような指標で、私たちの生活の本当の意味での豊かさは表現しきれない。
私たちはやりたいことがあれば、先立つもの=カネが必要と教えられてきた。しかし、そうした通念に縛られて金を稼ぐことだけに時間を費やしては、本当にやりたいことができなくなる。命は有限であり、人の一生は限られている。その限られた時間で、私たちは何をしたいのだろうか。どんな社会に住みたいだろうか。
世界のあちこちに、戦火が絶えない。飢餓が蔓延している。それは私たちの日々の生活とはかけ離れた別世界のことのように見える。しかし、それはモニターの向こう側のバーチャルな世界の出来事ではない。そんな発展途上国ではまだ経済規模の拡張が求められる。しかし、私たちに必要なのは、モノの豊かさではない。
私たちは今、大規模な人員整理をする企業の株価が上がるような社会に住んでいる。戦争放棄という国の根幹にかかわる大原則をなし崩し的に「放棄」する国に住んでいる。それは、目の前にある原発や自然災害などのリスクはそっちのけで、想像上の危機を言い募る政治家たちによって強引に進められている。
ただし、これらのこともモニター越しに起きている他人事ではない。そんな経済観念も、そんな政治状況も私たち自身が積み重ねてきた選択の結末だということに自覚的でなければならない。無能な政治家しかいないのは、私たちが民主主義制度を支える政治的リーダーを育ててこなかったからだ。リストラで株が上がる社会が望ましいという判断を受け入れてきたからだ。そんな誤った選択の積み重ねが、この社会の根腐れの根底にある。
懸念すべき病根は学問の世界にも伝染している。私自身は幸いなことに所属大学の評価を上げるために業績を出すとか、外部資金の申請をするなどの馬鹿げた方針につきあう必要がなくなっている。しかし、成果主義が蔓延しているから、若い人たちは論文作成に追われ、成果をともかくも出版社を口説き、本にまとめようとする。博士論文が事実上義務化し、生煮えの研究素材が、一連の論文の形でまとめられる。そのために錯覚が生じる。
課程博士論文は、その論文の研究成果が学界に十分に貢献しているかどうかを判断基準としてはいない。基準は、論文の執筆者が「自立した」研究者として研究を続けられるかどうかという点にある。だから、課程博士の学位は、研究者として一人前という「免許状」に過ぎない。論文の完成度に問題が残ったとしても、まだまだ未解決の問題があり、博士論文単独では学問的に十分な研究成果ではなくとも、学位は与えられる。そんな習作を本にするのは、内容的に無理がある。テーマを温め熟成させる時間が足りない、そんな作品であるにもかかわらず、出版が企図される。最後の関門になる出版社の責めは大きい。
この拙速の背後には、本人に選択余地がない研究者人事システムの形骸化がある。そこには経済発展を数量的な指標からしか評価しようとしない時代のイデオロギーと共通する成果主義がある。
時代の流れに合わせなければ職が得られないという不安は働くものに共通する。やりたいことを実現するために、研究者としての志を遂げるために、若者たちはその場を得る必要がある。
ここにはこの社会に共通の底の見えない不安がある。その不安を払拭するためには、効率という目標や競争という手段を相対化する必要もある。そうして社会的な安定性を高め、経済的な煩わしさから離れた、人間的な解放の方向に向かう可能性を拓く必要がある。そしてこのような人間的な社会を作り出すためには、私たちが日々の行動、日々の選択のなかで新しい時代を選び取っていく覚悟がいる。
[たけだ はるひと/経済史家]