神保町の窓から(抄)

▼小社の「評伝日本の経済思想」シリーズに新著が加えられた。摂南大学で研究を重ねる新鋭牧野邦昭さんによる『柴田敬──資本主義の超克を目指して』である。1970年代の後半にめぐり合い自伝的名著『経済の法則を求めて』を上梓以来、柴田はわれわれに勇気と励ましを与えてくれた。本が売れなくて渋い顔をしていると「世界が病んでいるのだ。零細企業の経営が苦しいのは当たり前だ」と超然と言い放ったりした。そのとき力がついたか忘れたけれど、何か気楽になった気がしたことを思い出す。学問にも政治にも事業にも、口も手も出した柴田だったが、何ごとにも満足しない人柄だった。ある年のある日、自著『転換期の経済学』の増補版が出来たので自宅に届けると、開口一番「これはダメだ。すぐ書き直す」と呟き、本屋を脅かすのである。
 今度、牧野さんの新著から教えられたのだが、柴田の遺稿の中に「新時代の開拓者としての日本」という一文があった。1983年頃の文章と思われる。その中に次のような指摘がある。こんなことも書いていたのかと少し驚いた。明治25年生まれの学者の言葉だ。   
 「日本国憲法は戦争を否定する、と表現した。それが本心なら、米国の傘に守られてというのではなく、核を無能ならしめる技術を大急ぎで開発するのでなければならぬ。そうすることは、世界を核から守る所以でもある。そうしてこそ、平和国論は世界平和論に通ずるのであり、平和世界の新時代の開拓者ともなるのだ……日本はこれまでこのことに気付かなかった。上述のような新技術を開発しようとする努力を、払ってもこなかった。新核兵器を持って日本に近付くとその核兵器が自然に爆発力を失うことになるようにする技術……平和憲法を本気で守るというからには、必死の努力によってそのような技術を開発し始めるべきである……」
 柴田は資本主義が抱えるさまざまな問題と真剣に向き合い蓄電池の開発や風力や海水力の研究にもとり組んだ。牧野さんはこれら一連のことを「資本主義の超克のための実践活動であった」と位置づけている。考えこんでしまう。理論の提唱者が、実践においても優れていなければならないという謂われはない。口先だけでいいというつもりはないが、柴田の提唱と柴田の実践とを比較するとき、柴田の仕事が、柴田の人生が、つまらないものだったと誰が言えようか。われわれが励まされたのは、柴田の成功ではなく、人々を平和に導く方策を思索しつづけたその姿勢にあったことに気づくのだ。牧野さんの新著を手にした柴田の二女淳子さんから電話がきた。「長く待ちわびた期待が実現しました。うれしくて胸がドキドキしています」。公平なはずのわれわれでも惚れた本には偏愛が住み着く。この本の長命と前途の明るいことを祈るばかりだ。
▼今年の1月から著作権法が改訂され、紙の本の出版販売権と電子本の出版販売権が別々に存在することになった。著者(書き手)の側からみれば、紙の本はA社で出したが電子本はB社で販売する、ということもできることになった。小社では電子本として流通させているものは皆無だが、この先どうなるか見当もついていない。ある日気がついたらわが社の本がみんなAmazonで電子化されていたということにならないよう、用心するに越したことはない。そこで小社では昨秋から著者の先生方に「紙も電子も」両方の出版販売権をくれるようお願いの文書をお送りした。とりあえず900冊を選びだした。共著書が多いためかその執筆者は千数百人にのぼった。先生方の現住所調べから始まり、返信ハガキやら送料やら切手代も嵩んだが、その反面、不思議なもので、何十年も売れつづける名著好著ばかりを出版してきたように思えてきた。贔屓にすぎるがホントです。文書を送ってから何ヵ月か過ぎた今もお返事のハガキは届き続けている。どうぞ、まだ返信されていない先生は急いで投函をお願いいたします。
▼3月末小学六年生の言葉。
 原発事故で全村避難した福島県川内村の小学校6年生秋元千果ちゃんは、村が出した帰村宣言で戻ってきたが、友達は誰も戻ってこなかった。たったひとりで卒業式を迎える羽目になった。校長は「6年生は千果さん一人だけでしたが、優しく頼りがいのあるお姉さんとしてみんなを引っぱってくれて、最上級生として立派に責任を果たしてくれました」と感謝のことばを贈った。村人たちがたくさん列席してくれた。ひとりで辛かったろう、友達いなくて淋しかったろうと涙顔で見つめる中、千果ちゃんの別れの挨拶。「ひとりだけれど一人ではない。淋しいけどかわいそうではない。笑顔の絆で結ばれた学校生活でした」と涙をボロボロと床に落としながら述べた。不幸せだなんて誰にも言わせない。また、そう思ってもほしくない、そう毅然と宣言している千果ちゃんにも見えた。千果ちゃんはまた一人で、川内村の中学一年生になった。 (吟)